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古剣稽古日誌

古剣稽古日誌

い風邪から、10日ぶりに体調が戻ってくると、心身の変化がありありと感じられ面白い。

せっかくの機会だから、内観し、観察している。

重い肉の塊だった全身の重さが消え、別人の体を借りてきたような軽やかさを覚えてきた。

両肩の詰まりが抜け、柔らかく下へ、ストンと落ちていく。

身体の中央部、背骨のまわりを、透明で軽い筒状のカーテンが上へと立ち上っており、そのおかげで地面に立ち上っているような気もする。

ギシギシきしんだ各関節が消え、どこが節かわからない柔らかい布のような腕となる。

その分、ココロと身体の連携が復活し、精度が戻ってくる。

片手で箸を落としても、無意識のうちに、逆の手がフォローするようになる。

本当は、ふだんこれだけラクだったのか、と新たな新鮮さを覚えた。

ところで、東北各地で発見されている林崎新夢想流居合の絵伝書の多くは、術者の身体を逆三角形で表現し、その胸の中央部、中丹田のあたりに黒い点やかたまりを描く。なぜだろう。

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(「林崎新夢想流居合極意秘術唯授一人目録 向次第」筆者蔵、この絵では棒状で描かれている)

私の勝手な推測だが、あれは絵画的表現だけではない。往時の人々の身体感、重要な示唆ではないか。

今回もそのことを考えさせられたことがあった。

体調不良のときの私は、なぜか胸の内側のその部分が、空っぽか、ぺしゃんこにつぶれていた感覚があった。

治ってくるとその部分が、内側から確かな密度と熱を持ってふくらんできた感がある。

なぜかそのことによって、心身が格段に爽やかに満ちてきた。

その反面、リセットされた身体に、ずっと癖だった動きも、また蘇ってきそうだ。

その蘇る寸前の感覚から、なぜそのような動きに陥っていたのか、以前とは異なる視点から見つめ直せる予感がしている。

なお、ひとりの身の内の「権衡」(家伝の卜傳流剣術の教えより)を取り戻したら、それをより大きな外界へと拡張して、溶け込んでいくのは明日からかな。

以上、病み上がりの閑人の妄想にて。

 

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家伝の卜傳流剣術伝書では、全身各部同士と大地との「権衡」を説く。それが失われると体に負担がかかり、道具の重さを感じると説く。

これはおそらく当流だけではなく前近代の諸流にも共通していた。もちろん林崎新夢想流居合にもだ。

だが、現代の武道稽古の現場では、ほとんど聞かれなくなった教えであり、対照的にパワーとスピード最優先のため、若年のうちから稽古で身体を痛めてしまう子ども達が急増している気がしてならない。

なお、この「権衡」は日常ともつながる。

古い家伝が説く「権衡」とは、求めても求めても、答えがわからない特別なものかと感じていたが、ふだん近くにあったのだ。失ってはじめてその存在が、有難さがわかった。

ここ一週間、風邪で寝込んだ。

ようやく治ったが、病になってはじめて、誰しもふだん健康であることが、いかに強く、精妙な心身の働きをしているのか、つくづく知らされた。

おそらく、ふだん元気なときにはその存在を感じていなかった、我なりのレベルでの全身と地面との「権衡」が、かなり崩壊した。

すなわち「けんこう(健康)を失って、けんこう(権衡)も失う」のである。

あたかも全身が、バラバラのブロックを無理やりつなぎあわせた、鉛の塊をひきずっているような、ぎこちなさに陥った。

身体が不調になると、ココロも連動して不調になる。

このひとつひとつが、ふだん蓋をして、目を反らしてきた己の醜さなのだ。

ひとつひとつ、そのダークサイドの正体を見つめ直していかねば、一生私は成長しない。

「権衡」は、どなたにもある天与のものであり、その人、年齢、体調、その日ごとの権衡があるのだろう。

ひとりひとりが己の内へ深く訪ねていく稽古のなかで感得されるだろう。

誰かが「これが正しい権衡」と定めてしまえば、普及活動には便利だが、現場では齟齬と苦しみを生むだろう。

今日の、いまの、わたしの権衡を求めて、静かに心身を整え養っていこう。

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少し不思議な話をしたい。人里離れた山奥で、人は、人の声を聴きたくなるものらしい。

山の怪異は柳田國男遠野物語」だけではなく、身近にたくさんある。

わが家は代々、山が好きな男が多い。祖父も叔父もだ。

叔父は、幼い頃から、祖父に卜傳流剣術や剣道を仕込まれたほかに、青年時代になると、躰道を創始された初代祝嶺正献 - Wikipedia師範から直々に「空手」を習っていた。

剣の経験があるというと「先の先」や「後の先」のことを質問されたり、よく木刀を持たされて、太刀取りの実験相手をやらされたという。

稽古のない休日は、鳥類研究のため、山野を駆け巡っていたという。

その日は、山中で嵐となった。

仕方なく、上流の谷のなか、小高い丘でビバークした叔父。

谷のなかを、切り裂くような恐ろしい雷鳴が何度も通り過ぎっていく

その後、いきなり真っ暗な静寂が訪れた。

そのとき、谷川のせせらぎが、なぜか人の話し声に聞こえて不気味だったそうな。

それでいて、人気がないはずの深山を跋渉中、いきなり山菜取りの人に出会うと、ゾッとするものだといっていた。

もうひとりは同じ剣道場の老師範。

ひとりで渓流釣りにいき、数十メートル崖下へ滑落。

両足を骨折して動けなくなり、人気の全く無い深山で一週間、寝そべりながら、あたりのコケや虫を食べて生きのびた

夜になると小動物が匂いを嗅ぎにくる。死体と間違えて食われないように必死で追い払う。

そのうち、全く誰もいないのに、なぜか、あたりから複数の人の話し声が聞こえてくる。

何を言っているかはわからないのだという。

ある夜は、目の前に青く光る人影が二人立った。

最近、亡くなった剣道の先輩方だった。

こちらに微笑みかけてくる。怖いとは全く思わなかったという。

まるで映画スターウォーズジェダイの魂だ。

七日目に救援ヘリに助けられたという。

そして私。

高校生の頃、山岳部の仲間達と、霊山岩木山の中腹を登っていた。

気づくと仲間が数メートル近くにいるはずで、大きな声もするのに、姿が全く見えないのだ。

裸眼で左右2.0の私が、何度も目をこすってみた。頭がおかしくなったかなと。

まもなく仲間が出現したが、いまでもその原因がわからない。

あえて言うならば、雑木林で無数の木々が交錯して、あたかも一枚のスクリーンのようになって友人を隠していたのだろうか。

以上、この三名には全く霊感などない。私などは霊能者から「あなたは幽霊が来ても、はじき飛ばしてしまうタイプだ」と言われたこともある。

それでも、山中で不思議に遭遇した。同じような体験をした前近代の人々が、様々な伝説を創ったのかもしれない。

ともかく我々の近くに、我々の知らない不可思議な世界があるとは、なんと面白いことか。

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