東京での「弘前藩伝・林崎新夢想流居合稽古会」が、盛会のうちに終了した。

今回は北文研が主催だった。私は修武堂代表として後方支援にまわった。

是風会の高無宝良師範、天然理心流武術保存会の加藤恭司代表師範、日本武道文化研究所川村景信師範ら、多くの方々に多大なるご支援いただいた。

深く御礼申し上げます。

前回、修武堂主催でやったときからおなじみの方や初めての方もおられたが、みなさん武術・武道の経験者ばかりで、理解されるのが早く、こちらも大いに勉強となった。

ともかく、この林崎新夢想流居合とは、かつて日本各地に伝承があったのだ。

たいがいの弘前藩士も学んでいた。我が家も四代前の小山英一まで師範を務めていた。

約二十年前、先輩の紹介をきっかけに、私ひとりで始めた研究稽古だった。

やがて、故加川康之氏の協力で、修武堂みんなで稽古する武種のひとつとなった。

そして、日本各地の林崎流を研究されている日本武道文化研究所との連携が始まった。

いまでは同流の稽古のみに特化した、北文研「弘前藩伝・林崎新夢想流居合稽古会」結成等と広がりつつある。

様々な方々との交流から、私ひとりの限界が次々と打破されてきた。

見えなかったはずの風景が見えてくる。幸甚極まりない。

今後どのような展開となるかわからないが、再び日本各地でこの居合が復活し、それぞれが楽しめる豊かな武の文化資源となればいい。

私も多くの方々と連携しながら、自分自身の、かつて家伝でやっていた林崎新夢想流居合を深めていきたい。

二日目は、多摩の一之宮小野神社で、他流交流会と奉納演武となった。

若い方々や女性達とともに、天心流第九世中村天心先生もお見えになられた。

小さな会なのに、毎回ご来駕いただき大変光栄である。

座敷でお茶をご一緒しながら、マンツーマンで、若い頃の修行話、昔の武芸者の作法や座敷での護身法など、貴重な技やお話をたくさん拝聴し、大変勉強となった。

甲野善紀先生もおいでになられた。

一年ぶりの再会である。最近、進展されている技をお教えいただいた。

サッカーのような競り合いで、こちらの動きを阻止してくる相手に向かい「恋い慕う」ようにまっすぐ向き合っていくと、なぜか相手が阻止できなくなる術理。

体験してみると、確かに精妙にズレていき、衝突しない。

それが、あたかも当方の体の芯の動きを狙われているような、むずがゆさがあり「ボールペン同士の先端を合わせようとしても合わない」という比喩に膝をうった。

また「内腕」や、願立剣術物語の「唯カイナ計ヲ遣事ソ」の術理も大変興味深かった。

足で地面を蹴る動きを解消することで、予備動作を消したり、剣の急変化も可能となる。

我田引水ではあるが、とくに「内腕」については、昨年暮れから、当方の林崎居合稽古でも工夫している、スキーのターン技術との共通性も感じた。

例えばスキーは、急斜面のアイスバーンを滑落するので、全く地面を蹴ることができない。

それでもターンしなければ、命にかかわる大事故となる。

そのため、脚力を使わずに、腕や肩、体幹部という上半身の変形だけで、全身の動きを生む。

すなわち、ふだん使いやすい脚部を、あえて抑制的に使うことで、全く新しい動きを獲得する、ということにおいて、スキーと、林崎新夢想流居合などの身体操法も、共通部分があったのではないか。

ともかく、甲野先生とお話するなかで、難易度の高い林崎新夢想流居合の所作は、高度な浮き身がかかっていないと不可能であろうということで見解が一致したのである。

 

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(小山百蔵英正「居合掌鑑(林崎新夢想流居合)」小山秀弘(卜傳流剣術宗家)蔵)

2月11日(土)東京での林崎新夢想流居合稽古会。修武堂 | お知らせ

このような津軽で熟成された古流を首都圏で稽古できる機会はほとんどない。また、近現代以降に定着した、居合の一般的なイメージを見つめ直す機会にもなろう。

まだ空きがあるようなので、ご縁のある方はお待ちしております。

前回までは形の手順だけだったが、今回はその質を高めていきたい。

まずは、いにしえの武士たちの基本座法「趺踞(ふきょ)」を体験いただく。

これほど両脚を折りたたんで低く座って動けるのか。刀が抜けるのか。

実は正座以前、日本各地の古流居合もやっていた古法だ。

前近代の東アジア各地(シラットや中国拳法など)でも多用されていた座法でもある。

これだけでも、己の身体を根底から充分に見つめ直す稽古法となる。

誠に窮屈な姿勢から、何が導かれるのか。耳を澄ましたい。

そのあとで「きわめて静かに」三尺三寸の長大な刀を抜いていきたい。

全身360度の「権衡」(卜傳流剣術より)を求められる。ぜひ堪能していただきたい。

それが楽しくなれば、一本目「押立(おったて)」の形は、自ずと成立してくる。

己ひとりの権衡ができたら、それを対人関係のなかに投げ込む。

我が刀を動かせないほど密着した敵が、短刀で突いてくる、という危機的状況のなか、いかに発揮できるかという稽古が始まる

なおこの「押立」は、最初に学ぶ技であり「極意」でもある。

この質を探求するだけで、一生、稽古を楽しむことも可能だろう。

これができれば、このあとの形群や立抜刀もすべて、その延長上にみえてくる。

なお私は、ここ10日間くらいの体調不良から復活して、身体の大切さを痛感した。

現代における武の稽古の必要性を感じた。

すなわち、スマホが普及し、座ったままほとんどのことができるようになっても、我々人間は必ず、己の身体を窓口として、目前の世界を感じ、とらえている。

だから、私のようにその精度がおかしくなると、世界の認識もおかしくなり、遅れをとる。

それは西洋の先学者たちが唱えてきた身体論とも重なる。

これから、AIやロボットがすべてを代行してくれ、人間が肉体を使わなくなって鈍化させてしまえば、我々は目の前の世界に対応できなくなって、はぐれ者となり、やがて生物として撤退せざるをえなくなるのではないか。

せっかくこの世に生まれたのだから。

この稽古を通じて、感度の高い心身となり、現実世界の深さと精妙さをじっくり堪能しながら、楽しく生きていきたいものだ。

 

い風邪から、10日ぶりに体調が戻ってくると、心身の変化がありありと感じられ面白い。

せっかくの機会だから、内観し、観察している。

重い肉の塊だった全身の重さが消え、別人の体を借りてきたような軽やかさを覚えてきた。

両肩の詰まりが抜け、柔らかく下へ、ストンと落ちていく。

身体の中央部、背骨のまわりを、透明で軽い筒状のカーテンが上へと立ち上っており、そのおかげで地面に立ち上っているような気もする。

ギシギシきしんだ各関節が消え、どこが節かわからない柔らかい布のような腕となる。

その分、ココロと身体の連携が復活し、精度が戻ってくる。

片手で箸を落としても、無意識のうちに、逆の手がフォローするようになる。

本当は、ふだんこれだけラクだったのか、と新たな新鮮さを覚えた。

ところで、東北各地で発見されている林崎新夢想流居合の絵伝書の多くは、術者の身体を逆三角形で表現し、その胸の中央部、中丹田のあたりに黒い点やかたまりを描く。なぜだろう。

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(「林崎新夢想流居合極意秘術唯授一人目録 向次第」筆者蔵、この絵では棒状で描かれている)

私の勝手な推測だが、あれは絵画的表現だけではない。往時の人々の身体感、重要な示唆ではないか。

今回もそのことを考えさせられたことがあった。

体調不良のときの私は、なぜか胸の内側のその部分が、空っぽか、ぺしゃんこにつぶれていた感覚があった。

治ってくるとその部分が、内側から確かな密度と熱を持ってふくらんできた感がある。

なぜかそのことによって、心身が格段に爽やかに満ちてきた。

その反面、リセットされた身体に、ずっと癖だった動きも、また蘇ってきそうだ。

その蘇る寸前の感覚から、なぜそのような動きに陥っていたのか、以前とは異なる視点から見つめ直せる予感がしている。

なお、ひとりの身の内の「権衡」(家伝の卜傳流剣術の教えより)を取り戻したら、それをより大きな外界へと拡張して、溶け込んでいくのは明日からかな。

以上、病み上がりの閑人の妄想にて。