弘前市一番の飲み屋街、鍛治町。

きらびやかなネオンと酔客たちで賑わう反対側に、ひっそりと福島道場がある。

小中学校時代、互いに鍛え合った剣道の強豪達はみなここで育った。

いまその稽古はなくなって、大学居合道部の稽古場となり、

最近、北文研が、隔週木曜夜の林崎新夢想流居合の稽古会を始めた。

一般の方々、初心者にも開いている稽古会だ。

昨夜は、下田雄次氏と同流居合の立ち居合「五箇之太刀」を研究した。

打太刀(師匠側)も仕太刀(弟子側)も、三尺三寸の長い刀と、小太刀の大小二刀を帯刀し、

互いに歩み寄りつつ抜刀して斬り結ぶ剣術となる。

一本目「声抜」。

仕太刀は、打太刀が抜いて斬り下ろしてくるその手元へ入り、

切り上げながら側方へ抜けつつ、振りかえりながら相手の左肩を斬る。

カタチの手順を守っている稽古は過ぎつつある。

同じ間合いで抜きながらも、いかに相手の手元、構えの中へ入り込むか。

その課題が解ければ、あとは大きな流れが生まれる。

その流れに、三尺三寸と一体になって我を投じていけば、あとはすべて自動化される。

あたかも水流の中で魚が身をさばいていくような感じで、相手の後方へ抜けながら太刀を返せる。勢い余って後ろへふっとんでいきそうにもなる。

二本目「開抜」では、同様にして相手と二度斬り結ぶのだが、

二度目の所作が、どうしても途切れて穴が空いているようでスッキリしなかった。

しかしここでまた、天横一文字から天縦一文字への変化を思い出したら、それが解消された。

やはり、林崎新夢想流居合の一本目、座って行う「押立」はすべて形のベースとなっている。立ってからもその身体を遣うのだ。

なお下田氏から、青森県南部地方各地に伝承されている民俗芸能「鶏舞」「剣舞」(けんばい、けいまい)での、刀や薙刀などを右前腕部へ引っかけるような所作を教えてもらった。

やってみると、あたかも武具とわが身体が一体化し、武具を規矩として、それに導かれるようにいろんな動きが可能となる感じがした。

同じことは、林崎新夢想流居合でも重要なことであると私は感じている。

かつ、その持ち方は、ふだんの三尺三寸の持ち運びでも便利だ。

近代武道の礼法での持ち方より、狭い空間でも回りに刀をぶつける心配がなくなる。

コロンブスの卵のような発想だ。

どうして近代武道は、このような有効な方法を採用しなかったのだろう。失伝したのか。

帰り道、ふと思った。

幼い頃から強制されて、あれほど嫌だった武の稽古。

しかし、いまの己にとっては、暮らしの中で様々な毀誉褒貶があろうとも、

ここへ立ち戻って心身を整え、養い、その機能を高めて、また立ち向かっていくための羅針盤となっている。

津軽にもようやく春が来た。

深い雪に埋もれていた庭の小さな稽古場が、ようやく地表に出てきた。

またここで稽古ができる。

先日は、弘前で武学研究会を開催された光岡英稔師範と幹事S氏、外崎源人氏を我が家の稽古場にお招きして、林崎新夢想流居合の研究稽古を楽しんだ。

稽古場には、先祖達が使った黒ずんだ古い木刀だけではなく、様々な武具や正体不明のガラクタまで山積している。

それは、私の稽古における、さまざまな徒労と模索を表しているようだ。

さて、林崎新夢想流居合の研究稽古。

遺された形式と手順を墨守するだけの体操では、武として全く通用しない。

己自身の心身を通して、いかに活きたことわりを見いだしていけるか。

一般に古い形は、仕太刀(弟子側)へ、より厳しい条件を求めてくる。

そのなかで「こうするしかない」という必然性、一筋の光明を見いだしていく学びこそが、実際の危機的状況においても活きるという。

しかし、そのような形の状況設定を解析するだけでは、わからないことがある。

すなわち、形が提示する所作をとることで自ずと発生してくる身体の状態、

そして技前、技の後に生じるだろう、形以外の様々な展開の可能性まで予見し、確実に封じられるような位取りを行い続けること。

(なお「位(くらい)」とは「これだ」という固定的な存在ではなく、常に相手や周囲との相互作用で変化し続ける存在である。

だから己自身が「位をとったぞ!」とするのはたいてい誤認が多く、そこが居着きとなり敗因となる。

よって逆に、対峙している目前の相手の状態から「己が位をとった」ことに気づかされるものだ、という古伝もある)

短い時間だったが、三尺三寸の長刀の仕太刀(弟子側)を導くため、九寸五分の小刀を操る打太刀(師匠側)の存在と役割についても再考できた。

当たり前だが、この打太刀は、三尺三寸刀の修行過程をすべて修得した者が務める。

一見、ただ正座しているだけに見える。

それは不動明王の像にも似てはいないか。

不動明王が、右手に短い剣を立て、左手は水平または下方にして座ることで、右半身が垂直方向へ浮きがかかり、左半身には沈みがかかっているような「天地眼」「牙上下出」の左右非対称の姿勢から、独特の位と鋭い小刀の突きが生まれるようだ。

その心身によって、常に、三尺三寸側の生殺与奪の権をつかんでいる。

だからこそ、その稽古を導くことができる。

しかも、その稽古における九寸五分側の攻めが、いままで想像していたレベルより、遥かに厳しいことが感じられてきた。

いまの私のレベルでは、まだまだ対応できないと痛感させられた。

このような打太刀の役割は、古流全般に共通することだろう。

稽古が、単なる闘争や安易な度胸試しではなく、

危険へと通じる深い淵をのぞく境界線上を歩きながらも、

弟子が安全に技量を磨いていける場を生み出すチカラを備えた者だけが、師役を務められるのだろう。

それを思えば、全く師側ができない己を、改めて痛感する。

しかし古流が存亡の危機にあるいまは、身の回りで、このような稽古観さえ失われつつあり、形は実用性から乖離した昇段科目かセレモニー用として誤解されている。

チカラがなくとも立つしかない。

形とは何か。なぜ必要なのか。

わが家にも中近世以来の素朴な形がある。

己の好き嫌いを言えず、淡々と継承してきた。

亡き祖父は、明治末期に、卜傳流剣術を代々伝えてきた一族の長男として生まれた。

少年期には、旧藩の各武芸師範達や戊辰戦争を体験した武士達がまだ生きていた。

一方全国では、武士達の武芸が衰退し、新しい人々による近代武道への移行が始まっていた。

やがて旧弘前藩の各武芸師範家達も、我が家以外すべて、血脈による代々の技芸をやめた。

残った伝承の一部を、有志達がつないでいった流儀もあった。

そのなかで、ややもすれば、伝来の口伝があいまいとなり、形の所作も不明となり、様式化していく流儀や、全く形を捨ててしまった流儀もあったろう。

一族で伝承しているといえば、現代社会では「親子だけの稽古では独りよがりになりやすい」という批判もある。確かにそうだろう。

だが一面では、それが我が剣術の継承を守ったのかもしれない。

生まれたときから起居を共にし、強制的に教えていれば、たとえ言葉は少なくとも、無意識のうちに感覚と全身すべてで伝承されてしまう。その情報量は膨大だ。

(実は私は、順序立てて習った記憶がなく、いつの間にか稽古していた。

だから他人への教え方がよくわからない…。

よって広く一般の方々へご紹介するいまは、家伝伝書の再読をしながら、自己分析と内省とともに稽古を見つめ直している。)

あれこれ自由選択等が許されずに継承した者が、最後までその伝承の責任をとる者となる。

昔の諸職の職人たちもそうだったろう。私もそのように生きていく。

弘前藩最後の武芸師範家として、近代と対峙してきた祖父は、孫である私へよく教えてくれたことがある。

「形稽古ばかりではバカにしてくる人がいるものだ。だからそれに負けないよう、竹刀稽古も充分にやって実力を磨いておきなさい」

確かに近代は、そのような時代だったのだろう。

そのため日本各地では、伝来の古法を、近代式に改変した流儀も少なくなかったようだ。

加えて近代武道は、自らも新しい「形」を編み出した。

そのなかには、かなり具体的な技の手順を示すものがあり、我々がすぐに共感、理解できる。

だが、カタチが具体的なものほど、手順が明らかなものほど、その先が尽きやすい。

すなわち「こうきたらこうする」という即物的な手順は、状況が少しでも変化すると無効だ。

変化を旨とする武では、命を預けるには不安である。

確かに江戸時代でも、そのようなすぐ理解できるマニュアル的な形は生まれていただろう。

だがそのような形は、変化づくしのシナイ稽古や乱取りの流行の前には、無力だったろう。

一方で、古い流儀の形のなかには、即物的な手順として考えれば、全く説明に苦しむものが多い。

我々現代人の感覚や心身が変わってしまったこともあろう。歌舞伎の所作が見えなくなったように。

もしかすれば古い形は、近現代の我々が考える「形」と同じ存在ではなかったのではないか。全く異なる存在として認識され、扱われていたのではないか。

いまわかることは、そのなかの所作に無意味なものはないだろうことだ。

それを己の愚かさから「無意味だ」と捨てたり、改変してしまえば、形は本当に生命を失ってしまうだろう。生命を失った形こそ、自由稽古の前には全く無力となるだろう。

例えば家伝剣術の小太刀。最初にまことに奇妙な所作をする。

右手の小太刀を腰あたりに真横へ構え、左掌でその刃部をなでるようにする。

口伝では「刃の向きを確かめるため」という。それから具体的な技を遣う。

わたしもその通り稽古してきたが、どうやらそれは単なる礼法やまじないではない。

その所作を行うときに発生する身体に気づいた。

我が身体を、真横につらぬくように走る、見えない水平器が、左右の権衡が生じる。

加えて、朝日のように昇っていく小太刀が、前方への流れを生む。

これらが組み合った規矩によって、我が構えと身体が、前後左右の権衡を保ったまま、相手へ間合いを詰めていく。

これは、鈍重な私が、いくらがんばっても立ち上がらない、自由稽古や地稽古の繰り返しのなかでは、なかなか気づくことができない、透明で確かな身体の規矩である。

どちらにも偏っていない中庸だからこそ、相手の先を察知できる。

真っ向を斬ってくる太刀を、左右へかわすことができる。

その規矩を壊して相手に打たれる要因を生んでしまうのは、我が、驚・懼・疑・惑の四戒だ。

このような剣術稽古で学べることは「死ぬ気でがんばれ」と、できるかできないか、バクチを打つ無謀さではない。

目前の虚空で、混沌とした混乱のなかで、我が心身の置き所を知る、ということか。

為すべきときに、為すべき場で、為すべきことを成す、ということであろう。

このような規矩は、おそらく先人達の身体にも発生していたのではないか。

だとすると、時代遅れの稽古をしている私は、

その瞬間、ちっぽけさから抜け出し、

この形が実際に活きて使われていた先人達、形が生まれた遙か遠い開祖の心身へと、

時空を超えてアクセスしていけるのならば、これほどうれしいことはない。

武の先人達が遺してくれた形は、開会セレモニーや昇段試験、懐古主義、サムライごっこのためではなく、

時代は変わろうとも、混沌として切実な目前の世界を生きぬくため、実践のなかから見出されてた、普遍的なことわりのヒントを示しているのではないか。