伝説では、塚原卜傳と林崎甚助のふたりの剣豪は、互いに交流があったという。

それが本当ならば、彼らが残した剣技も、具体的に共通する術理があったはずだ。

例えば、山形県で林崎夢想流居合を伝承されていた故奥山観禅宗家は、両雄をつなぐ具体的な技法を伝えておられたという。

我が家も17世紀から弘前藩で代々、卜傳流剣術と林崎新夢想流居合の師範をやってきた。

だから、伝書や奉納額でも、両雄の名前を併記し崇敬してきた。

しかし、二人の開祖に共通する具体的な理合など、この私にわかるはずがないと諦めていた。

だが一昨日、居間で素振りを工夫していて、面白い推論がでてきた。

よく「素振りを教えてください」と言われるが、

私は、何度やっても「正しい素振り」を知らない。納得できないでいる。

剣道でも、無数に上下素振りをやったが、

古い剣術の斬りは、現代の我々の予想を越える異質さではないかと思っている。

例えば、家伝の卜傳流剣術は、両肘を前後に異様に張り出すような独特な構えをする。

併伝していた林崎新夢想流居合は、天横一文字、天縦一文字などといって、三尺三寸の刀を頭上で奇妙な旋回をさせながら斬り下す。

なぜこれらの形は、このような動きにくい、異様な所作を要求するのだろうか。

以下は現在の私の推論だ。

おそらく、左右の二本の腕が、それぞれ縦と横へ、全く異なる働きをすることにより、

ひとつの斬りのなかで、上下および水平のベクトルが生まれて連携する。

その結果として、複雑な斜めの斬り(?)が発生するよう設計されているのではないか。

だからこそ、日本刀を両腕で操る技法が多いのか。

よく日本刀の斬りには、左右の腕で打つ力と引く力が合成される、という仮説が有名だ。

それだけではなく、もっと複雑怪奇な三次元に展開していく動きであるような気がする。

上下素振りの場合は、相手に腕をしっかりと掴まれると斬り下せなくなることが多いが、

上下左右が合成されているだろう古流の斬り下しだと、両腕をしっかりと掴まれても、我はラクに斬り下せる現象が発生するようだ。

もちろんその斬りには、体幹部、全身も連動しているのはいうまでもない。

上下左右の刀法に連動して、全身が意外な動きへ導かれ、思わぬ身法が見えてくる。

すると、たったひとりの打太刀を相手に稽古していても、

実はその動きは、周囲の対多人数相手の技法にも展開していける可能性を帯びてくる。

これはやはり自由打ち合い稽古ばかりでは気づけない。

こんな世界があったのかと、先人達が遺した古い形だからこそ、見えてくる未知の光景だ。

以上は暗愚な私の分析だから、おそらく実際の現象の一部しか見えていない。

わからなくてもいい。己ではよくわからない方が、技が効くことがある。

もしかすれば、この形を設計した古人でさえ、理屈より経験知だったのではないか。

この稽古のなかで連想したのが「卍(万字)」である。

万字は、林崎新夢想流と同系の居合はもちろん、諸流でも術理のシンボルとして多用される。

しかし前近代の人々が万字で、具体的に何を差し示したのか、未だ明らかではない。

万字は、塚原卜傳が説いたという理合にも登場する。

私が連想したのは、近世伝書が記す塚原卜傳のエピソードだ。

剣技の工夫において卜傳は、はじめは「縦(竪)」と「横」を合わせた「十文字」の理を工夫したが、それでは足りずに、ついには「万字」をみいだした、という伝承があるのだ。

もしも、縦と横のベクトルが全く異質な現象を生む、という例え話だとすると面白い。

形や技の外形だけではなく、その背後を流れる無形の理合でこそ、先人達と共感できれば、この上ない幸せなのだが…。

非常に多くの示唆に富む自由な打ち合い稽古だが、

それだけに、その刺激と楽しさだけに耽溺していては、だんだんズレていくこともある。

やがてそれは、怪我や加齢とともに失われてしまう。

ココロとカラダは生涯をかけて変化していくから、その年齢ごとのハーモニーが楽しめる。

年齢を経て始めて気づく心身の絶妙なバランスがあるようだ。

だから、生涯を通じて、形稽古とともに、竹刀打ち合い稽古も楽しんで上達していきたい。

そのためには、若さと体力まかせの一時の花で終わらない、工夫と理論が必要となろう。

愚かな私は20代に入るとき、30代になるとき、40代になるとき、それぞれの年代になっても有効に動けるか、と己に課題を設け、拙い工夫を続けている。

さて竹刀稽古。

自由に打ち合うことは重要な体験だが、ただ打ち合えばいいのではないらしい。

よく、全くの初心者に袋竹刀を持たせて、好きなように打ち込んでいい、とやることがあった。

もちろん初めてでなかなか動けない方もいるが、なかには意外な動きをする方も多い。

その際、受け手側は、ふだんの慣れた稽古で体験したことがない動きに驚き、やったこともない対応を迫られるため、かなり新鮮な勉強となる。

だがその一方で、その打ち込んでいる初心者はそれ以上がない。

すなわち、反射的にバットをメチャクチャに振り回し、ラッキーに頼るような状況のままだ。

そんなとき、やはり刀法や打つべき部位など、ある程度、稽古上の制限をかければ、技の精度があがることがある。

これは初心者だけではなく、経験者でも同じことがいえよう。

その点において剣道が、打突部位を制限したのは、勝敗判定がしやすくなるだけではなく、稽古の方便としてかなり有効な手段だったからではないか。

先人達の知恵に驚くばかりだ。

しかし、そこばかりに留まっていても問題がある。

実は「稽古の方便」として設けた仮の制限を、稽古で心身に深く刷り込んでいくほど、

いつの間にか、自分自身を拘束する限界、見えない壁となってしまうことがある。

あたかも、平準化された人工プールで競ってきた水泳アスリートが、波や岩場などの自然の変化に富む海辺で溺れることがあるように。

例えば竹刀剣道で、面、小手、胴、突きなどのルール上の打突部位に関する意識を高めたが、ルール上の打突部位以外は意識が薄く、攻防のなかで、そのような両肩、首、二の腕、拳、脚部などへ打突をくらっても「一本にはならない」と、自動的に見逃してしまう習慣が付いてしまっていることがある。

これは私自身の反省体験でもある。

心身を鋳型にはめ込んで対応力が乏しくなる弊害は、カタチに居着いた形稽古だけではなく、実は自由稽古でも発生することがあるのかもしれない。

前述した「見逃してしまう部位」は、古い剣術が想定いている実際の闘争では、いずれも、致命傷となる重要な部位である。見逃すわけにはいかない。よくよく自省したい。

よって無制限の攻防において、特定の部位を意識しながらも全身をまんべんなくカバーしていく「目付」の技法が発見されてきたのだろう。

さらに稽古では、実際に打たれる感触、経験も重要だろう。

それで体感的にわかることも少なくない。

初心者の場合、技が当たる間合いに入っていること、起こりが明らかである自分に気づかないことが多い。

よって、師匠がそこを軽く打ち示すことで、危険水域に入っている現実を体感で気づかせる。

経験者も同じだ。打たれることで、自分では気づかなかった攻防の隙、穴を教えてもらえる。

いくら自分自身では、速い攻撃であり、完全な防御である、精緻な術理であると自尊したくとも、武は人間関係だ。

よって、素晴らしい技が、刻一刻と変化し続ける相手や周囲との関係性のなかで、自在に発揮できるかどうかは別の問題である。

家伝剣術も、たとえ高度な技法を体得しても、忙しき乱戦のなかで使えるかどうかはわからず、逆に素人同前となってしまうこともあると戒めている。

例えていえば、どんなに素晴らしい言葉でも、その場の雰囲気や人間関係の微妙な加減で、全く使えないことがある一方、

文字としては全く拙いのに、なぜかその場では、的確な表現として、人々に深い印象を与えることがあるように。

よって、独り稽古で養ったことを、形や自由稽古という対人稽古のなかに投げ入れ、心身の拍子、調子、先の先、後の先などを失敗しながら、体験的に磨いていくしかない。

また、打たれたときの感覚やその後の対応なども実践的な学びとなる。

家伝にも、図らずも先を打たれた場合にどうするか、という口伝がある。

そして自由稽古の相手だ。

互角同士もいいが、ややもすれば、感情の高ぶりに任せて単なる乱闘になってしまう。

わたしもそのような未熟なときがあった。

しかしそれでは、人間関係も、稽古の場全体も、憎悪と嫉妬で荒れていき、続かなくなる。

やはり個々の稽古と全体を整理し、導いてくれる師匠がいることが大事だ。

たとえ互角稽古をしていても、師匠格は同じレベルの喧嘩に陥ってはいけない。

師匠は、攻防そのものに没頭してしまわず、第三者として冷静に全体を眺め、導く技量が必要だ。

そして相手のレベルに応じて、攻め手にもなり、受け手にもなり、自在に姿を変え導く。

古い剣術の組太刀もそうなっている。

このような稽古が成立するには、やはり互いの深い信頼関係が必要であり、見知らぬ他人や他流相手ではどうしても必死となるからそんな余裕はないだろう。

江戸時代、弘前藩主から高覧仕合を求められた當田流が

「同門同士はともかく、他流相手の仕合は、そのまま死に合いとなるから、よほどのことが無い限り受けない」とした意味もなんとなくわかるような気がする。

ともかく稽古では師匠が、弟子に課題を投げかけ、活かさず殺さず、ちょうどよく追い込みながらも、

弟子が懸命に応じてくるその技を、師匠が自ら受け、負ける側となって弟子の上達を導く。

これは実は簡単なことではなく、師匠の技量があるからこそできる行為だ。

それで技術が継承されていく。私もそうやって育てられてきた。

しかし体術の稽古方法は逆なのだろうか。師が弟子を投げ、組み伏せる演武が多い気がする。歴史の中で変化があったのだろうか。

それにつられてか、近年は剣技でも、師匠が弟子を打ち負かす演武が多くなった気がする。

幼い頃から、他地方の御流儀演武ではいくつか拝見した方法だが、我が旧弘前藩伝承各流儀では、ほとんど見たことがない方式だ。

家伝剣術でも、稽古以外の公開演武で、師である祖父や父は常に打太刀(技を受け負ける方)をやるものであり、後進の私が打太刀をやらされたことは一度もない。

時代変遷や地域差もあるのだろうが、現代ではPRの必要性に対応しての工夫もあるのだろうか。

修武堂活動における私も、先祖の掟を破っているなあ…。

袋竹刀による自由攻防稽古をずっと工夫してきた。

本当に難しく、様々に模索してきた。

剣道式の相手に剣術式で対抗することも工夫してきた。

そのとき、素早いが間欠が生じてしまう「送り足」や「飛び込み足」の攻撃に対して、

古流が多用する歩み足、いや、當田流や林崎新夢想流居合等の達人だった浅利伊兵衛が示したとおりに、

ただ居着かずに歩むことが、いかに効果的か痛感させられる。

古めかしい林崎新夢想流居合の刀法も、自由稽古でも充分に有効なことも見えてくる。

家伝の卜傳流剣術の意外な術理も見えてくる。

さて、そのとき思い出すのは「剣道と剣術は何が違うのか」という問いだ。

「竹刀を使うか、刀剣を使うのか」という一般的な説明では足りない。

その道具の差が、技術の根幹にも反映されているのだ。

例えば、間合いがかなり異なる。

竹刀剣道やスポーツチャンバラ等では、相手の身体(打突部位)を直接ねらって攻防し、連打の応酬となる。

そのなかで、独自の精緻な競技的技法が確立されてきた。

しかし同じ技法を、往事の武士達がそのままやっていたかといえば、そうではない。

すなわち実際の闘争で、防具無し、木刀や棒、刀剣などの固い武具で同じ攻防をやれば、

生身の人間の身体はそれに耐えられない。

またたく間に凄惨な相打ちとなる。

私も剣道部員だった。ポイントを先取するため、より速く、多く打ち込めとなり、いくら相手の竹刀の余勢を浴びようと痛くないからかまわない、という攻め偏重になりやすかった。

対照的に古い剣術では、素肌で木刀や刀剣等を使うため、相手の斬りを少しでも身に受けないよう、相打ちを回避する知恵と技法があった。

すなわち、最初から相手の身体をねらって飛び込まない。

まず相手の武具を、構えを、破ってから入っていかなくては我が身が危ないからである。

だから、攻防の最初の衝突点(相手の武具、構え、身体の一部…)こそ重視する。

現実には、互いが対峙して挟んでいる間合い、空間を斬るような行為となるかもしれない。

そしてその最初の接触で、相手の武具、構えを押さえ崩さなくては、すぐに連打を浴びる。

ここに剣術と柔術のつながりがあるのだろう。

つまり、斬り結ぶひと太刀ひと太刀ごとに、攻めと守りが同居、攻防一致でなくては、

とうてい命をかけた斬り合いなど不可能だったのではないか。

これらのことは、いまさら私が説明するまでもなく、多くの古流が常識としてきた世界だろう。

だから形の所作もそのように編まれていることが多い。

だがその武士達の経験知が、現代では高段者の間でも忘れられているようだ。

だから古い形をみても、よくわからなかったり、的外れなご批評もいただくのだろうか。(続く)