そのほか

「やわらは天地の和順にござりまして、万物養わるるものなり。 強きを恐れず弱きを侮らず、よきにも囚われず、悪しきにもさのみ謗ることなく、 高き賤しきそれぞれに随い応ずるの道なり」 津軽固有の柔術、本覚克己流和(ほんがくこっきりゅうやわら)の教え…

錦風流尺八について

2017年7月29日(土)弘前市の武家屋敷「旧梅田家住宅」にて 旧弘前藩の上級武士達が伝承してきた 根笹派大音笹流錦風流尺八(ねざさはおおねざさりゅうきんぷうりゅうしゃくはち)について、 同流の青森県技芸保持者 山田史生(やまだふみお)師範による演奏…

ここ数か月、博物館の資料整理で、美術品の梱包や輸送のプロ集団と仕事している。 そのなかの長老でひとり、見事な所作の方がいる。 他の学芸員は、貴重な資料を梱包する彼の技術に感心する。 しかし私はそれだけではなく、繊細な器物を破損しないよう、丁寧…

武は「対立」を宿命的な課題としている。 だから稽古や試合が激しくなるほど、どうしても、いい感情ばかりではなく、負の感情も次々と湧いてくることがある。 それにどう向き合うかで、修羅の無間地獄に陥るか、文明の智慧としての武になるか分かれる。 勝っ…

昨日の修武堂稽古。 みんなで家伝の卜傳流剣術と、林崎新夢想流合を稽古した。 家伝剣術は小太刀をやった。 たいがい古流剣術には、小太刀の技法がセットで伝承されている。 だがスポーツチャンバラ等の打ち合いで、短い小太刀で大太刀に対抗するのは至難の…

近代に創られた各分野の「伝統」。 それがたったひとつの「正しさ」として他者を評価、睥睨している。 先日子どもが、剣道部稽古ノートに、武術・武道のバイブル「天狗芸術論」を引用した。 すると有段者のコメントは、誤読されたうえでの完全否定だった。 …

心身が復活してきた。また新しい心で稽古を始めよう。 この一か月、風邪をこじらせてから、ずっと体調がすぐれなかった。 しかし雌伏のなか、身体をモノとして考えるだけでは知りえなかった、その組成を見つめ直すこと、己を内側から組み替えていく作業がで…

東京での「弘前藩伝・林崎新夢想流居合稽古会」が、盛会のうちに終了した。 今回は北文研が主催だった。私は修武堂代表として後方支援にまわった。 是風会の高無宝良師範、天然理心流武術保存会の加藤恭司代表師範、日本武道文化研究所川村景信師範ら、多く…

(小山百蔵英正「居合掌鑑(林崎新夢想流居合)」小山秀弘(卜傳流剣術宗家)蔵) 2月11日(土)東京での林崎新夢想流居合稽古会。修武堂 | お知らせ このような津軽で熟成された古流を首都圏で稽古できる機会はほとんどない。また、近現代以降に定着した、…

長い風邪から、10日ぶりに体調が戻ってくると、心身の変化がありありと感じられ面白い。 せっかくの機会だから、内観し、観察している。 重い肉の塊だった全身の重さが消え、別人の体を借りてきたような軽やかさを覚えてきた。 両肩の詰まりが抜け、柔らかく…

家伝の卜傳流剣術伝書では、全身各部同士と大地との「権衡」を説く。それが失われると体に負担がかかり、道具の重さを感じると説く。 これはおそらく当流だけではなく前近代の諸流にも共通していた。もちろん林崎新夢想流居合にもだ。 だが、現代の武道稽古…

少し不思議な話をしたい。人里離れた山奥で、人は、人の声を聴きたくなるものらしい。 山の怪異は柳田國男「遠野物語」だけではなく、身近にたくさんある。 わが家は代々、山が好きな男が多い。祖父も叔父もだ。 叔父は、幼い頃から、祖父に卜傳流剣術や剣道…

修武堂の定例稽古は、会費も月謝もすべて無料。経験や武種も不問、どなたでも参加でき「来る者は拒まず去る者は追わず」で十数年やってきた。 だから、名前も知らない方と剣を交えていることが少なくない。 なぜ門戸を開いているのか。 その理由は、30歳の頃…

「わが市は、武士が発祥したところだ(!?)。だから武道の基本をきちんとやらなくてはならない。よって昇級試験のランクを細かく設定した。」 という、全く奇想天外な講話が、津軽でも生まれてきた。 「武士が発祥したところ」など、特定の市町村に限定で…

津軽のくらしと武の稽古は、極寒から逃れられない。 幼い頃は毎朝、刺し子の剣道着に袴を着け、オーバーを着たら北辰堂へ走っていった。 戦前の建物だから、断熱材とは無縁、すき間風ばかり。 真冬でも全く火の気を使わなかったから、外にいるのと同じ寒さだ…

武も、剣も、安全な現代社会では「無用の長物」と思う方もおられよう。 しかし私は、この現代生活だからこそ、ますます重要性を増している、と感じている。 生命力を豊かに、濃くするためにも。 そのひとつが、人と人との関係の持ち方だ。 我々は、互いの間…

修武堂は、まるで武術の「アベンジャーズ」か。 バラバラの個性が、同化してしまうことなく、独立しながら、ゆるやかに連携している。 ふつうの武術・武道の会ならば、みんな同じ服装で同じ技だけをひたすら稽古するものだ。 だが我々は、武種も、職業も、好…

修武堂古参のお仲間、F女史に、永遠のお別れをした。 常に穏やかに相手を包み込むような笑顔だった女史は、 2016年12月9日の朝、仙台の地で天に召された。 奇しくも、武道史研究家太田尚充先生の逝去と同じころだった。 当会稽古では、合気道で練られた、し…

12月9日朝、太田尚充(おおた たかみつ)先生が天へ召された。91歳であられた。 先生は、大正15年生まれ、東京高師卒で柔道八段、全日本柔道連盟参与の武道専門家であられるとともに、 弘前大学などで教鞭をとられながら、弘前藩および八戸藩の各古流武術の…

吹雪の津軽から、小春日和のような八戸市へ。 十和田湖の創造神話で活躍した南祖之坊(なんそのぼう)。 彼が修行したという真言宗の古寺へ。 伝統に閉じこもることなく、様々な活動を創造して、現代に向き合っている若い副住職にお会いできた。 その姿勢に…

現代における武は、剣の役割とは何だろう。 当代の我々修行者が、よそから借りてきた言葉ではなく、自らそのことに答えられなければ、その世界は泡沫の夢となろう。 素晴らしい日本の伝統文化、精神修養、試合に勝つため、健康法、だけならば、他にも優れた…

bugakutokyo.blogspot.jp 先日、国際武学研究会光岡英稔師範による稽古会に参加させていただいた。 人間の身体は、もともと左右非対称であり、それぞれ異なる特性と機能がある。 という、大きな示唆をいただいた。光岡師範に深く感謝申し上げたい。 以前、な…

武の第一目的は「試合に勝つこと」ではない。 それでは、会議で試合ルールが変わるたびに、武の目的も、求める人間像も、毎度変わってしまう。そこから一歩出たら、通用するかどうかもわからなくなる。 武は、そのような、揺れ動く存在、限定された世界では…

昔の話を聞いた。 ある武道で、段位や範士、教士などの称号がほしければ、なるべく中央の先生方とつながりを持つこと、頻繁に飲み会に出ること、贈り物合戦をすることだったという。 我が家は代々それをやってこなかった。だから地方の修行者は永遠に…。 近…

11月6日、弘前市の笹森家武家住宅で、弘前大学古武術研究会 twitter.com 主催で、同大学居合道部、青森大学忍者部との合同演武会が無事終了した。 あいにく私は仕事で参加できなかったが、同研究会顧問のひとりとして、ホッと安心した。 ご協力いただきまし…

弘前公園のなかの護国神社の神楽殿には、近代の武芸奉納額がある。 いずれも招魂社時代に奉納されたものか。 ひとつは、明治24年7月10日の奉納額で、當田流剣術山崎勘一郎の門人、高山龍助が、16名の打方を相手に、天保15年5月24日から26日にかけて昼夜三日…

稽古していたら、改めて感じる。 やはり刀剣は、単なる視覚だけでとらえる鑑賞の器ではない。 それだけだったら、あのようなカタチをしている必然性はないだろう。 刀剣本来の機能美は、動きのなかでこそ、明確に立ち上がってくる。 刀剣は、無制限で混沌と…

幼い頃から、祖父や父、各古流の先師達のそばで見聞きしたり、教えてもらったたくさんの武術談義や伝説、伝承がある。 そのときはなんとも思わなかったが、年齢を経てくると、いろんなことに気づかされる。またそれらは一般の方だけではなく、現代武道修行者…

流行のメンタル・トレーニングをやっている方がいた。 よくわからないが、ときどき禅の公案や武芸伝書で聞いたようなことが出てくる。 きちんとやれば効果はあるのだろう。 しかし中途半端なやり方では「こうすればああなる」と、あたかも人間の心身を単純な…

先日、道場へ取材にきたテレビ番組の全国放映日が、 新しいニュースに押されて、ドンドン延期されているそうだ。 まあ、急ぐ話題ではないのだから、気長に待とうかな。 なによりまずは、己自身の稽古を堪能しよう。 我々修行者はよく「正確な動作になろう」…