剣道

対多数ー林崎新夢想流居合「二方詰」

武術であれば、どうしても一対一だけではなく、対多数にも向き合うことが求められてしまう。 これは大変困難な課題であり、私なども全く自信がないが、日本のみならず、世界各地の各伝統武術は大概そのことを想定している。 幼い頃は、北辰堂道場の剣道稽古…

自己をならう

5歳から家伝の卜傳流剣術を、6歳から剣道の稽古を始めたので、武の稽古も40年を過ぎた。 まっすぐな街道ではなく、非才のうえに、回り道や五里霧中も多かったので、長くやっていても上達していない私だ。 ただ、幼い頃から大きな疑問があった。 例えば無数に…

先日、東京での武学研究会の休憩時間のときだ。 同会代表光岡英稔師範と、ゲストの甲野善紀師範との雑談に加えていただくなか、光岡師範から慧眼が示された。 古い武の形とは、当時の人々からすれば「動けば自ずとそうなる、そうせざるをえないという身体の…

非常に多くの示唆に富む自由な打ち合い稽古だが、 それだけに、その刺激と楽しさだけに耽溺していては、だんだんズレていくこともある。 やがてそれは、怪我や加齢とともに失われてしまう。 ココロとカラダは生涯をかけて変化していくから、その年齢ごとのハ…

袋竹刀による自由攻防稽古をずっと工夫してきた。 本当に難しく、様々に模索してきた。 剣道式の相手に剣術式で対抗することも工夫してきた。 そのとき、素早いが間欠が生じてしまう「送り足」や「飛び込み足」の攻撃に対して、 古流が多用する歩み足、いや…

ときどき剣道高段者から、 「剣術は形ばかりで、剣道のように打ち合わないから痛くない」というご批判をいただく。 しかしこれは近代の誤解である。 研究史が示すように、近世初頭から各地の剣術流派は、袋竹刀を使った当てる稽古を始めていた。 我が家伝の…

武の稽古には、その人なりの世界への向き合い方が、如実に現れることが多い。 これはつくづく、私自身の深い反省である。 往々にして、ものごとに出会った瞬間、己のクセによる先入見、または誰かにもらった既製の視点でとらえてしまう。 ことに武はその特性…

津軽のくらしと武の稽古は、極寒から逃れられない。 幼い頃は毎朝、刺し子の剣道着に袴を着け、オーバーを着たら北辰堂へ走っていった。 戦前の建物だから、断熱材とは無縁、すき間風ばかり。 真冬でも全く火の気を使わなかったから、外にいるのと同じ寒さだ…

中学生の息子が、全国から強豪が集まる剣道の練成会に参加した。 しかし、幼い頃から剣道よりも、古流の剣術や居合、柔術等、多彩な稽古を楽しんできた彼にとって、剣道の技法は不慣れな面が多い。 なぜそのように育てたのか。 実は、私自身、剣道稽古の比重…

最近、林崎新夢想流居合の稽古のひとつとして、 三尺三寸の長大な刀と、我が心身をいかに連結させるか、 という工夫のなかで、ひとつ気になる現象がある。 三尺三寸刀は、術者の心身に変化を生じさせたり、誘導してくれる器であるが、 あくまで生物ではなく…

武であるからには、必ず、我と相反して変化する相手がある。 己ひとりや、静止物相手だけで完結する稽古では、実際の闘争で大きな錯誤を生むだろう。 そのためか、林崎新夢想流居合の稽古では、必ず一人か二人の相手を付ける。 そのうえでこの居合には、居合…

今日、外崎源人氏と青森大学忍者部へ、 家伝剣術と林崎新夢想流居合の指導でお邪魔した。 弘前藩の忍者「早道之者」を率いた中川某らは、 林崎新夢想流居合や當田流、本覚克己流和など、普通の藩士達と同じ武芸を習得し、藩主前の武芸高覧でも披露していた記…

最近、毎日のように炎天下の弘前公園をランニングしている。 何かあったとき走れる身体、そして地稽古(自由稽古)の体力養成も兼ねて。 照りつける太陽、気温30度越え、体力の消耗は激しく、カラダが重くなっていく。 そうなると翌日も走るのが嫌になって、…

まるで、少年時代に夢中になったジョン・クリストファーの小説「トリポッド」の冒頭が現実化されていくのを見ているような不安がある。 自分の代わりとなるアイコンが増え、バーチャル空間と現実がますます融合していくいま。 なにが本来なのか、何のために…

よく林崎系統の居合伝書は「右膝を規矩とする」という。 もしかするとそれは、抜刀時だけではなく、納刀においても同様なのではないか。 いや、居合だけではない、剣術にもいえるのではないか。 我が家では、近世から近代にかけて二百数十年間、家伝剣術と林…

愚息は中学校剣道部員だ。 その話を聞いていると、自分の中学生時代を思い出すとともに、変化も感じることがある。 子どもの頃の私は、家伝剣術よりも竹刀剣道稽古が多かったので、人より早く始めた分、試合ではあまり苦労しなかった。 だが息子は逆に、竹刀…

博物館展示作業。終日、大工仕事で体を動かしていると、いろんなことに気づかされる。 いろんな先入観で、剣技が見えなくなる。 以下は当たり前のことを再録。 何度もいうが打突とは、必ずしも「相手の身体を打つこと」ばかりではない。 それでは命がなんぼ…

地元の旅館のご紹介で、北辰堂へ外国の方が見学にこられた。 スウェーデンとデンマークの男女だ。弘前でサムライの文化や技芸を見たいということらしい。 確かにこの城下町に来て「津軽の文化」といっても、ネプタや津軽三味線などの民衆文化、近代の洋風建…

道具にはそれぞれの特性がある。 だから自ずと導かれる心身もそれに規定されてくる。 やはり剣の道を学ぶならば、実際の刀剣がどのようなものなのか知らなくてはならない。 剣を規矩として、心身を構築するから剣の道であり、 竹刀を規矩とすれば竹刀の道と…

「現代の古流剣術師範のなかで、現代剣道と地稽古(自由打ち合い稽古)をして、充分に通用する師範はいない」と、ある有名武道師範の著書にあった。 確かにそのような傾向もあろう。だが断定はできない。 卑近な例で我が家のことを。 代々、旧藩の剣術師範だ…

各種スポーツ団体や学校部活動がどうしても陥ってしまう状況について。 指導時間が限られているから、なかなかマンツーマン指導ができない。 一方で、団体としての立派な業績を打ち出していかなくては人が集まらない。経営が成り立たない。 よって効率的な方…

修武堂の定例稽古。 おなじみの方々とともに学生さん達もおいでになり賑やかだった。 久しぶり道場に入った瞬間、杉材の床が、日々の剣道稽古すり足で、まるでグラインダーをかけたようにボロボロになっていることに驚いた。 そのなかにひとつ、小さな窪みが…

現在の学校剣道の現場に触れることがあった。 青少年たちの真摯ながんばりには、胸うたれるものがあった。 もちろん素晴らしい指導者もいる。 しかし何人かの指導者の方法や振る舞い、志向には、少々違和感を禁じえなかった。 確かに、剣道着と袴、防具に身…

「伝統」とは、後世を生きている我々を守り、導く守護天使のような有り難い存在である。 わたしもそこで活かしてもらっている。 しかしややもすれば、己自身で考えることなく、与えられるまま、排他的な「正統性」に依存したがる怠惰な強情をも招く。 それは…

先日、鳥井野獅子踊の祭礼にお邪魔した。 同じ前近代の身体技法でも、獅子踊は、近現代武道のように、近代競技スポーツ論理で整理されたり改変されたことは少ないから、古い要素が残っているのではないか。 その教え方のなかで「腕を差し伸べれば自然と脚も…

居間で木刀を振る。 「剣術は形だけだ。剣道は実戦なのだ。だから両手で構える」と、老剣士はあいかわらず、奇妙な自論を展開されている。 何が「実戦」なのかはともかく。私は、幼い頃から嫌というほどやらされた剣道の地稽古では、なかなか見えなかったた…

家伝剣術にご縁がある流儀に触れる機会があった。 触刃の間合いからの攻防が精緻で、たくさんの気づきをいただいた。深く感謝申し上げたい。 何度もいう。刀剣は、鍔元から切っ先まで流れるように刃がついている。 なぜだろう。 これは、攻防のなかで彼我は…

学生たちから気になる話を聞いた。 剣道、居合道にはそれぞれ段位があるが、なんと、剣道の段位を持っていれば、少しの講習会を受けるだけで、居合道の段位がもらえるというのである。 しかし実際にはどうだろうか。 いくら剣道で竹刀稽古に励んでも、制度上…

林崎新夢想流居合の記録映像撮影。 K氏、無刀氏、外崎源人氏、下田雄次氏らのご協力のもと、向身七本、右身七本、左身七本まで撮影が完了した。 今後、編集作業等を経て、参考資料として公開へと進めていきたい。 そして朝方、家伝剣術の刀の素振りをしてい…

T氏のお世話で、小学生の息子にちょうどいい長さの模擬刀をプレゼントした。 いままで大人用の刀や脇差で稽古させていたが、やはり体にあった長さと重さの刀が必要だ。 ときどき、それを抜かせて、力まかせでブンブン振らせてみたり、柔らかく刀の重さを感じ…