竹刀稽古

滞りなく流水のごとく

武において間合いは最重要事項である。 いくら優れた技でも、相手にあたらなければナンセンスだからだ。 たとえば林崎新夢想流居合では、稽古の方便として、相手に密着した特殊な間合いゼロ状態を設定して、自在を求めていくが、 その一方で、いかに相手へむ…

林崎新夢想流居合の稽古は、今までの身体と技法を転換させていく。 同流は、脚への斬りや突きを斬り伏せる稽古が多く、剣道で、突っ立った構えになじんだ私は、身体の組み替えを迫られている。それが面白い。 「正しい」とされる直立姿勢で激しい攻防を行う…

「やわらは天地の和順にござりまして、万物養わるるものなり。 強きを恐れず弱きを侮らず、よきにも囚われず、悪しきにもさのみ謗ることなく、 高き賤しきそれぞれに随い応ずるの道なり」 津軽固有の柔術、本覚克己流和(ほんがくこっきりゅうやわら)の教え…

非常に多くの示唆に富む自由な打ち合い稽古だが、 それだけに、その刺激と楽しさだけに耽溺していては、だんだんズレていくこともある。 やがてそれは、怪我や加齢とともに失われてしまう。 ココロとカラダは生涯をかけて変化していくから、その年齢ごとのハ…

袋竹刀による自由攻防稽古をずっと工夫してきた。 本当に難しく、様々に模索してきた。 剣道式の相手に剣術式で対抗することも工夫してきた。 そのとき、素早いが間欠が生じてしまう「送り足」や「飛び込み足」の攻撃に対して、 古流が多用する歩み足、いや…

ときどき剣道高段者から、 「剣術は形ばかりで、剣道のように打ち合わないから痛くない」というご批判をいただく。 しかしこれは近代の誤解である。 研究史が示すように、近世初頭から各地の剣術流派は、袋竹刀を使った当てる稽古を始めていた。 我が家伝の…

「弘藩明治一統誌」によると、幕末の父祖達は、稽古場以外にも、弘前八幡宮の林や墓所などに集まって、家伝剣術や林崎新夢想流居合の稽古をしていたという。 同じように最近、外崎源人氏が、弘前公園のなかの護国神社境内で、大学生有志達に、抜刀や野稽古を…

剣道部稽古から帰ってきた息子が「木刀による剣道基本技稽古法」DVDを見ている。 この形は、平成になって「竹刀は日本刀であるという観念を理解させ、日本刀に関する知識を養う」ために制定されたという。 しかし、あくまで私見だが、あの形の構造は、中近世…

近年、剣道をやっている青少年が「面タオル」という。いったいなんだ。 よく聞くと「手ぬぐい」のことだった。 毎朝、剣道を教えてくれた明治生まれの祖父も昭和初期生まれの祖父も、そんな名前はしゃべったこともないし、聞いたこともないぞ。 「伝統」の世…

「剣術は形ばかりで、剣道のように打ち合わないでしょう」と言われることがある。そのイメージはやはり、剣術が廃れ、その実態がわからなくなった近代以降の勘違いではないか。刃引きや木刀でわかることもあれば、シナイだからこそわかる稽古もある。よって…

愚息は中学校剣道部員だ。 その話を聞いていると、自分の中学生時代を思い出すとともに、変化も感じることがある。 子どもの頃の私は、家伝剣術よりも竹刀剣道稽古が多かったので、人より早く始めた分、試合ではあまり苦労しなかった。 だが息子は逆に、竹刀…

正面を向き合い、ノーガードで思い切り打ち合い、接触の速さ競うこと。 競技としては意味があるのだろうが、実際の武技としては問題が多い。 なぜならば、それは刀の怖さを、生身の肉体のもろさを知らないからこその行為だからだ。 また、しっかりと打突しよ…

素朴かつささやかで、全く手応えがない家伝剣術一本目の稽古。 現代では全く評価されない動きだが、やるたびに多くの気づきをもらう。 日々、過去の、歴史の「前例」に拘泥し、これからの「計画」に迷っている私は、 実は目の前の現実を見誤っているのではな…

「現代の古流剣術師範のなかで、現代剣道と地稽古(自由打ち合い稽古)をして、充分に通用する師範はいない」と、ある有名武道師範の著書にあった。 確かにそのような傾向もあろう。だが断定はできない。 卑近な例で我が家のことを。 代々、旧藩の剣術師範だ…

打突部位を限定してしまったことは、稽古上の便法であり、競技化と普及のためには効果的であったのだろうが、武技としては課題が生じた。 本来は仮の約束であった打突部位。 それを前提とした竹刀稽古を激しく深く心身に刷り込んでいくと、仮の約束が、いつ…

最近ようやくまたひとつ、気づきはじめたことがある。 形と自由稽古の関連性だ。 いままで「両輪のように大事」とする定説を鵜呑みにし、いまひとつ、己の実感としては、わかっていなかった。 なんのために形があるのだろうか。 ただ自由に打ち合っていれば…

3年ぶりに学芸員に復帰した。心機一転、新しいチカラが満ちてくる。 すると、ときを同じくして周囲の方々にもいろんな変化が訪れていることに気づいた。天地、世界が動いているのかな。 ここ一か月、仕事が忙しくてなかなか稽古できなかったが、心身の変容は…

生物学者の面白い共著を読んだ。 人間が社会システムに依存する「自己の家畜化」が完成してくると「定められたルールに従わなくてはならない」という要請が出てくる。 ルールに徹底的に従うことは、自分の判断を停止することになり、脳をあまり使わなくなる…

林崎新夢想流居合の天横一文字から天縦一文字へ、構えが変化するなかで発生する攻防一致の太刀筋。 それが、なにも新しい発見でもなんでもなく、家伝剣術、そして新陰流や鹿島神流など諸流でも当たり前に遣ってきた技法であったことに気づき、まるで新しく発…

袋竹刀で、組太刀と自由稽古の中間のような稽古をする。 つまり一応は形を遣うのだが、使太刀が不充分ならば、打太刀は遠慮なく打ち込んでしまう。 (特に手指が怪我するので、簡単な手袋や小手ぐらいは着けた方がいいだろう。) 一方、使太刀も、いろいろ変…

やはり袋竹刀で打ち合う稽古からは、多くの気づきがある。 いつも演武している家伝剣術の形。実際に遣えるのかどうかと時々、袋竹刀で思い切り打ち込んでもらって検証稽古する。そのことにおいて外崎源人開発の「源悟刀」は大変優れている。 いろいろなお相…

外崎源人氏開発の袋竹刀「源悟刀」をさらに改良していただいた。 それを使って剣と剣、剣と小太刀、剣と試合用薙刀などの地稽古の研究をした。 やはり形稽古だけではなく、いろんな得物で打ち合う稽古をすれば、意外な発見があるものだ。 でも、いかに打ち合…

定例稽古。 H先輩に小野派一刀流剣術「詰座抜刀」を習う。 わが北辰堂(青森県弘前市)の代々の剣道師範が伝承したきたものだ。 林崎新夢想流居合と技名も技法も類似しており、それを新たな視点から学べる。 そして外崎源人氏が考案された袋竹刀「源悟刀」の…

竹刀稽古の応酬で「攻め勝って打て」「心が動かされた…」という稽古は奥が深く、私などは永遠に堂々巡りになりそうだ。 しかし実は、それらの探求をじっくりと堪能できるためには、相手も我も、同じ技術を使うこと、あらかじめ打突部位が定められていること…

先日、剣道師範が指摘された「剣術は形が固定されてしまっているが、剣道は自由に動くから「実戦」なのだ」というご教示について、再考している。 批判に対して怒るのは簡単だ。 だがおそらく、この出来事自体が、私に何かを気づかせようとしているのではな…

素面素小手、袋竹刀で家伝剣術の組太刀。 それは一般のように「何歩で歩いたら何度の角度で打て」という外形重視の体操のような形では使えないから、内側重視、あとはどんな現象が発生するかは神のみぞ知る。 上段から歩み寄り、互いに斬りこむだけのシンプ…

現代社会において、古い家伝剣術をやっていくことが「蟷螂之斧」であろうことは重々知っている。 だが、剣を振って動いて稽古すれば、体の芯から、生きている確かな喜び、それは他の何にも代えがたい深い充実感が湧いてくるのも事実だ。 数年前、東京でお会…

本日の定例稽古。 家伝剣術の竹刀稽古。 互いに袋竹刀を構えて、九尺の間合いからスルスルと歩みより、遠慮なく斬り合い、相手の構えごと斬り割る稽古。 素面だが、指や拳をつぶさないよう小手だけはつける。 剣道用の二本指小手では、家伝剣術特有の握りが…

武技には確かに「力」が必要だ。 手首のスナップ連打を繰り返す竹刀剣道およびスポーツチャンバラ式を脱して、一打目で相手の構えごと、体勢を切り崩していく剣術技法を稽古するとそう感じる。 しかし生の力は、あたかも陽炎のような存在だ。加齢やコンディ…

林崎新夢想流居合の記録映像撮影。 K氏、無刀氏、外崎源人氏、下田雄次氏らのご協力のもと、向身七本、右身七本、左身七本まで撮影が完了した。 今後、編集作業等を経て、参考資料として公開へと進めていきたい。 そして朝方、家伝剣術の刀の素振りをしてい…