古剣稽古日誌

古剣稽古日誌

昨日は名古屋からI氏が、秋田からM氏が稽古においでいただいた。奇遇にもお二人ともに極真空手杖術を修業されていたという。夜はS氏も交えて夕食をご一緒し、武術・武道談義に花が咲いた。

今日は、日本美術刀剣保存協会による刀剣鑑賞会にお邪魔し、平安末期から南北朝期、戦国末期、近世初期などの貴重な刀剣に直接触れて、拝見させていただいた。

私は鑑賞の知識も眼も全くない。それよりも、代々剣術をやってきた家に生まれた者として、その道具としての構造、機能的特性には関心がある。いかに扱うのかということを。

その恐ろしいほどの美を手にしていると、いろんなことが感じられてくる。

この鍛えられた刀剣の前には、鍛えられた筋肉も、力みや頑張り、最近のスポーツ選手が口をそろえて説く「強い気持ち」「あきらめない心」も全く無力、何発か連打して「もう一本!」もナンセンス。

触れられたら終わりなのだ。

なんと恐ろしい存在か。信仰心が無い私でも、古人達が刀剣を、混沌とした物事を分けたり、清める神器とみなしたことが感覚的に共感できてくる。

だからといって、剣に対したとき、恐怖し、そこに居着くことも許されない。

前後裁断、己の心身を透明にして、ひとときも滞ることなく、剣の変化の機、虚実に即応していかねば命がない。

私は刀剣を見るたびに、武が、剣が、いかに失敗の許されない一度きりの切実さを要求するものか、そして一瞬たりとも居着きや淀みを許さないこと、涼やかな水のような流れを感じる。

以上、また忘れていたことを思い出させてくれた。

私はそのように稽古しているか、日々、目の前のものごとに向き合っているか。

私自身の甘さを痛感させられる。

家伝剣術は、物事の変化の理を知るものが「剣術の聖」なりといい、変化や虚実は武技だけではなく、日々の暮らし、人が集まった場の雰囲気にも存在しているのだという。

私がマズイのは、武も暮らしの中のものごとについても、その変化に寄り添い、即応するのではなく、変化をコントロールしようとし、ときにねじ伏せようとしていることだ。

神ならぬ人が、そんなことできるわけない。関与することはあっても。

実は日々のすべては二度と発生しない、一度きりの切実なものばかりなのだ。

それらの妙をいかに感じ、過不足なく即応して生きていくのか。

そのことこそ、もう実用の場を失った剣術が、この現代においても、「いま」を生きていることにも充分につながる文化でありえるのではないか。

具体的は、武の稽古を通じて、心身が整い、ひいては感性や何気ない日常の動きそのもののの質が上がっていくこと、自分の地金が磨かれることではないか。

そうすれば急場でも、特に用意しなくても、汎用性の高いままでいられるのではないか。

だから形稽古でも、毎回コピーのように外面的形式を守るだけの稽古は、愚の骨頂であろう。

おおまかな形式はあっても、毎度の技の内実、心身の状態こそ重要である。

だから当会の稽古でも、同じ技、同じ人とやろうとも、再現するのではなく、ジャズのセッションのように、毎回どういう現象となるのかわからない新鮮さをもってやっている。

一方で、いかに自由な稽古、スパーリングでも、特定競技のルールや形式にのっとった姿勢や動き、「ファイト」と意識して切り替えなければならない心身ばかりを刷り込んでしまうのも問題があろう。

それは現実の想定外に対したとき、急には発揮できなかったり、対応力が狭まる可能性もないか。

いくら資格や段級位を得ても、この混沌として先が読めない現代を生きていくうえで、必要な心身はどちらだろうか。

 

 

 

 

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