実家の稽古場。T氏、S氏、Y氏らと林崎新夢想流居合「右身」「左身」の稽古。そして袋竹刀と薙刀などで少し実験稽古。

今までの我々の実験稽古では、薙刀相手に間合いで劣る剣は、苦戦を強いられることが多く、拙い経験では、間合いのある境界をいかに滞らずに越えるかどうかにかかっており、それがうまくいかないとたたき伏せられてしまう感がある。

逆に「北斎漫画」のように、長物相手には、小太刀と素手による小具足のような技法が有効的であることは発見していたが、なんと林崎流の三尺三寸刀もかなり有効であることをT氏が発見した。

長い刃をシールドにして我が身を防御しながら、一歩踏み込むだけで、相手の長物と対等な間合いをとれるようだ。戦国期に長い刀を操った人々がいたというが、槍や薙刀相手にもやはり利点があったのではないか。

さて、現代において武を、しかも廃刀令から百年以上たったこの世界で、剣を稽古するということに何の意味があるのか。

好きで始めた人ならば悩まないことであり、代々の家業として強制的にやらされてきたからこその疑問か。幼いころから何度も自問自答し、この世に我が立ち位置がなく、消え入るような不安に夜中目を覚ましたことが何度あったか。

いろんな本や師範の見解にも納得できなかった。ことに「日本の伝統、武士道だから素晴らしい」と、単純に酔える人がうらやましいとさえ思った。

(深い悩みほど、それを氷解させる解答は、ほかの誰でもなく、最後の最後には自分自身が一番知っていたことが多い気がする…)

ようやく腑に落ちてきた。

ささやかな家伝剣術だが、実はこの伝承が目指してきたのは太く大きな世界だ。危機を、困難を生きぬく智慧と技法なのだ。

現代社会では、大きく確かに見える昇段や試合という目標こそ、どこかの他人が決め、制度が変わるたびに「正しさ」も変わり、我々末端は右往左往させられるという、あてにならない存在なのだ。

だが、人が生きるとはそのようなことではない。そんな存在に我が人生を完全にゆだねてしまってはいけない。生きることのものさしは常に、世界と最前線で向き合っている各人の目前に直接、提示されてこよう。

細々と伝承しているこの家伝剣術は、そのような普遍的な問題に立脚している確固たる存在なのではないかと思えてきた。

そしてこの形は、自分と世界を深く見つめるための方法か。