古剣稽古日誌

古剣稽古日誌

また文化庁へ主張。

院生時代の先輩と後輩の技官にご挨拶。ふとその奥にいる若いキャリアに気付く。

幼い頃から受験、就職、ポスト等をめぐる熾烈な競争を勝ち残っていく生き方は、コース外で牧歌的な地方出身者から見れば、同時代の同じ日本人ではなく、全く異世界の人間にも思えることがある。

彼らから見れば「家伝剣術を納得したい」そのために、すべての人生設計を立てている私など、お笑いだろう。

そのような官僚制のピラミッドは政治だけではない。全国規模になった技芸、スポーツ、武道、剣の道もそうなっている。

いくら個人が、地方が、逆立ちしても構造的にかなうはずはなく、末端の機能を果たすことを期待されるだけだ。だから、地域固有の歴史と文化を投げ捨てて、いかに中枢からメダルをもらえるか競ってきた。

しかし、それが己の人生を全うしたといえるのだろうか。 中枢管理による全国的な平準化で忘れてしまった、武の多様な世界、豊かな術理がたくさんあったはずだ。

例えば、家伝剣術も林崎新夢想流居合も、腕だけ振り回すのではなく、全身各部がほどよいテンションでつながっていることを利用して剣を動かし、剣に意外な変化と威力を載せていくような遣い方を要求しており、それを養成するための格好の形が示されている気がする。これも全国化された武では失われた理である。

いまの私が気付けていることは、往時の武のなかのほんの一部分にしかすぎないが、ようやく気付けた幸福を、己だけの秘密にして墓場まで持っていけば、再び私と同じ苦しみをする人が出てしまう。

「もし渕に入る者あれば、これを助けてこれに与えよ」(本覚克己流和「一の巻」)というように共有し、さらに高めあっていくことで、この世界の豊穣さを取り戻し、中枢から離れたこの地でも、各人が独自に深い世界を探究できる場を再生したい。

さて私が出張している間に、その近くでとうとう大変な法案が強行採決してしまった。

やがて全く変貌してしまった世界を前に、かつて「誰に入れても同じだ。選挙に関心がない」などと、我々がノンキに構えていたことを悔やまねばいいが。

 

 

 

            

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