古剣稽古日誌

古剣稽古日誌

今日も武道館で12時から18時まで楽しく稽古。

ふと最近思いついたことがあり、S氏にお相手いただき、家伝剣術大太刀「裏」一本目。

この形が要求することは、まるでヤラセのような大仰なものであり、本当かよと思っていた。しかしそうではなかった。充分につかえる。

この形と対をなす「表」一本目「生々剣」は、あまりにも静であり、徹底した後の先、いや受け身であるが、

「裏」一本目は対照的に動であり、相手へかなりの斬撃を繰り出す。まるで上段から雷を落とすような、我ながらコントロールできないときがある。

しかし「生々剣」で体得した歩法と間合い、機を静かに見つめることが、この形に生きている。

やはり形は少しずつの階段をのぼっていくことを導いているのか。

一方でここ一か月、大太刀「表」五本の稽古が楽しくてしょうがない。いままであれほど淡々として無味乾燥だったはずの形が、毎度やるたびに新鮮な気づきの泉が湧いてくるようで、これだけで飽きないのだ。

かつて先祖たちは、人前で演武するとき、この五本をやっていたというが、私もようやくその妙味がわかるようになってきたのか。

そして當田流棒術用の特注六尺三寸の棒が届いた。さっそく同術代表S氏にクルミ油をひいていただき、振り回してみた。また稽古の楽しみが増えた。

このように当会の稽古に、正解もゴールもない。各自が求めるものを自分で求めている。なぜならば武はそのひとの生き方、哲学に深く関わるからだ。

そういえば、ほかで「また昇段がかなわなかった」という嘆息を聞いた。でもいいではないか。そればかりが武道、武術の目標ではない。

他もレスペクトし参考にはする。しかし誰がどう評価しようと関係ない。最後は私なりに本質を追及するのだと、制度に食われることなく、超然と歩み続ける武士のたたずまいこそ、今の世の混迷を拓いていく有為の人であろう。

そのような歩み方を、なぜこの地の我々は忘れてしまったのか。

 

 

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