古剣稽古日誌

古剣稽古日誌

「夫、人間ノ浮生ナル相ヲツラツラ觀スルニ、オホヨソ、ハカナキモノハ、コノ世ノ始中終、マホロシノコトクナル一期ナリ、

サレハ、イマタ万歳ノ人身ヲウケタリトイフ事ヲキカス、一生スキヤスシ、イマニイタリテ、タレカ百年ノ形躰ヲタモツヘキヤ、我ヤサキ、人ヤサキ、ケフトモシラス、アストモシラス、ヲクレサキタツ人ハ、モトノシツク、スヱノ露ヨリモシケシトイヘリ

サレハ、朝ニハ紅顔アリテ、夕ニハ白骨トナレル身ナリ、ステニ无常ノ風キタリヌレハ、スナハチフタツノマナコ、タチマチニトチ、ヒトツノイキ、ナカクタエヌレハ、 紅顔ムナシク變シテ、桃李ノヨソホヒヲウシナヒヌルトキハ、六親眷屬アツマリテナケキカナシメトモ、更ニソノ甲斐アルヘカラス」

浄土真宗の蓮如による「白骨の御文章」。伯父の法事でまた聞いた。私の実家は禅宗なので珍しくて拝聴する。

昨年は、それが説くあまりの無常に、いくら何をやっても、人も文明もすべて風化するだけなのか…!?と、無力感に打ちのめされるばかりであった

だが今日は違う気づきがあった。それは剣の稽古をベースにしている。

確かに万物が変化し、失われていくことを人は絶対に止められない。しかし変化は我々を消滅させるだけではなく、生かしてくれる、守ってくれることもあるのではないか。

具体的には家伝剣術稽古でも体認できる。攻防において、我が身が常に変化し続けているからこそ、相手の直打を免れることができる瞬間がある。一方、いささかでも変化が止まり居着いた「生々剣」では、簡単に撃ち落されてしまう。

それはおそらく体術でもそうだ。止まった瓦は突き蹴りで割れるが、生きて動いている人はなかなか割れない。

ところが我々は、こう打ち込みたい、打ち込んだのだ、という手応えと確証こそが武技だと考え、それを求めるあまりに「いま」に「過去」に固執し、自ら変化を止めようと居着いてしまう。

急停止、急発進を繰り返す、キビキビした形演武などは、その最たるものであろう。それは、一刻とも止まらずに変化し続けている世界の理と我が心身の実際を認識できず、自分の思念を押し付けようとしているといえないか。

いくら頑張っても現実世界と我が願いの齟齬が生まれるから、苦しみが生まれる。

同じく、剣道でも居合道でも「切っ先三寸(物打ち)で打て」という。これも本当だろうか。

なぜならば、予想を越えて変化し続ける彼我の攻防のなかで、あらかじめ衝突点を予測して打突しようということ自体、実はかなり不自然な行為なのではないか。

物打ち部分のみが有効打突ならば、刀の刃もその部分だけあればいいことになる。しかし実際の刀剣は、鍔元から切っ先まで流れるように刃がついている。

つまり、一点に居着くことなく、どこで接触してもいい構造になっている。万物が変化し続けることに対応できる構造だとはいえないか。

となれば、そのような道具を操る者にも、同じような心身を要求してくるだろう。

ともかく、万物が移り変わること、無常は、人の暮らしと生命を消し去るだけではなく、ときに災厄の直打を回避したり、苦しみや不幸に留まり続けてしまうことも許さないことで、人を生かし、守ることもしている。

家伝剣術も「変化を知るものが剣術の聖なり」と説いている。「こうでなくてはならぬ」「風化させないぞ」とゴマメの歯ぎしりばかりではなく、万物の変化に身をゆだね、堪能することもいいではないか。むしろそのことで己を活かし、慮外のチカラを発見していこう。

広告を非表示にする