「わざがうまれるとき 弘前藩の音と剣」(於いしのむろじ)が無事終了した。

弘前藩上級武士たちが心身修養した錦風流尺八の山田史生先生(青森県技芸認定者)にお引き立ていただき、家伝剣術とコラボ。

私はS氏と愚息を相手に、好きなように存分に家伝剣術を解説演武できた。この機会をいただいたことに深く感謝…。

でも、あまりに張り切りすぎて暴走し、尺八を堪能したくて来た山田先生ファンにはご迷惑をかけてしまった。反省…。

一方で、駆けつけてくれた稽古お仲間には、お褒めをいただいた。現在の私の修業過程について、迷ったり言い訳することなく、胸を張ってハッキリと明確に述べていたという。

まあ単に「逆立ちしても、今の私のレベルではこれぐらいしかできない」「往時の武士達からは一笑に付されようが、現在では全く忘れられてしまった稽古ではないか」と開き直っていただけだ。

それでも、私を褒めたことがない厳父が「お爺ちゃん(先代)が生きていれば「そこまでよくやった」と褒めたろうな」とポツリとつぶやいたのが意外だった。

また「公演を見ていて、かつての武士たちの姿が想像されてきて涙が出た」と言われた方もあり、身に余ることに大変恐縮した。

ここ20年の寄り道で、全国のいろんな武の優れた師範方にお会いでき、貴重な気づきをいただいてきたが、ヘソ曲がりの私だから、拙き悩みが根底から完全に消えたことは一度もなかった。

なんと迷いと業が深いのだろう。「我が師匠、我が流儀こそ最高!」と心酔できる方がうらやましい。

誰しも早く救われたい。でもよく考えれば、それぞれ異なる固有の悩みだからこそ、最後のキーは、他の誰かや大きな看板ではなく、自分自身のなかにあるのだろう。

我が身だけではなく、この時代全体も、いったいどこへ流れていくのか、ますます不安だ。

我々ひとりひとりは無力だが、大きな存在に身をゆだねきってしまう前に、まずは自ら考え、自らの足で歩こうとする習慣を持つ「武士」のような振る舞いが、そこかしこに増えていくことが、この社会の基盤を確かにしていくことになる気がする。

意志の弱い私自身、そのことを武の探究稽古を通じて学ばされている。