古剣稽古日誌

古剣稽古日誌

今日、青森県武道館で「青森県武道演武大会」が開催され、古流から近現代武道まで十数種の種目が集まり、それぞれ素晴らしい技が披露された。

いつも冒頭は、県内で伝承されている数流の古武術の演武が続いた。当家も三代で出場した。

全国的に隆盛を誇る近現代武道からすれば、少数だけで細々と活動し、しかも首をかしげるような不可思議な技法が多いと感じるかもしれない。

わからなくて当たり前だ。(逆に「わかる」と答えられる近現代武道の師範がいたら是非お会いしたいぐらいだ。それが勘違いでなければ…)

そんななかで演武する寂しさを幼い頃から感じてきたが、今日ふと気づいた。これでいいのだ、なぜならば、これこそがこの世界の固有性だからではないか。

すなわち、一般の武道人が見てもなぜわからないのか。それは、近現代の武道が見慣れたパラダイムとは全く異質な存在、実際の命のやりとりを潜り抜けてきた技法だからである。

ここ一世紀の我々が考えている「武道」の常識の多くは、試合競技や普及のために、危険な技や難解な技を簡略化し、安全面を配慮し、「正しい基本」とルールを統合し、一斉指導や学校教育のための整備を行うなかから形成された新しい文化である。

だが古流はそれらの一切の近代化とは隔絶しながら、原石に近いカタチで残っている野生種のようなものだ。

だからこそ存在意義があるのではないか。

ひとりひとりが生きるための技法だった武が、近代スポーツと親和することで、ナマの現実から遊離し、コートのなかで平準化、均質化し、日本全国どこにでもあるシステムへと変貌していった。

そのなかで、いまだにそこへ絡み取られずに、固有の技法と自立性を保ちながら歩いている、というのはかなり面白いことではないか。

例えていうならば、プールのスイマーと漁師の泳ぎ、クロスカントリーと修験者の山岳跋渉、

ひいては、みんながユニクロを着ているときに我だけ先祖代々の手縫いのこぎん刺しをまとっていること、誰もが大量生産車に乗っているのにひとりだけ唯一のカスタムカーに乗っていることにも似ているか。

かつ、変わりゆく近現代武道が、自分のルーツ探しをしたいとき、北極星のように定点観測の規準として必要とされることがある。

だから古流は、近現代武道やスポーツに「素晴らしい」といわれたり、その技法を採用してもらおうと期待してはいけない。理解されやすくなってしまったときに、古流は自分の固有の役割を、価値を、失ったことになる。それは全体としても、武のルーツを、定点観測地点を失ってしまう不幸となるのだ。。

よって時代の趨勢と全く無縁でいいから、本質を求めて徹底的に己の道を歩み堪能すべし。

そのことが実は、世界の一隅を照らす、己の固有の役割となる。

 

 

 

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