あらかじめ「正しい基本」やルールが定められている環境において、いかに適正なふるまいができるかどうかを問うのが競技スポーツであろう。

対照的に武は「正解」がない場で、相応な判断とふるまいが瞬時にできるかどうか問うている。

社会が平穏だったこの間まで、我々の生業や日々の暮らしは前者に属していた。

だが残念ながら近年はいつの間にか、後者の要素が増え始めている気がしてならない。

すなわち「正しい基本」の存在を信じている人ほど、葛藤し苦しまざるをえない時代となった。

しかしだ。よく考えてみると、誰しも日々の暮らし、生きることそのものが、大きな出来事から些末なことまで、すべてが後者に属していたのではないか。

つまり「正しさ」が明示されているなかで、為すべきことを的確に為すのが貴族や役人の務めならば、

それらのフォーマットが見えないとき、または枠組みが崩壊したときでさえ、失われた「正解」に居着くことなく、為すべきことを感知して為すことが武士達の存在意義だったのではないか。

すなわち、為すべきときに最適なふるまいができるということは、具体的な武技だけではなく、武士という存在そのものの起源、彼らが社会から要求されていた役割だったのではないか。

日々間違ってばかりいる私にとって、なんとあまりに厳しい命題だな。

それができない我だからこそ、家伝剣術稽古を通じて、間合、拍子、調子、響…などと体認し、この混迷の時代をサバイバルしていく力を養成したいものだ。

よってその稽古に「正しい基本」という予断を設けて、競技にしてしまってはいけない。それが無いときには動けない心身となってしまう。

繰り返すが武において「正しい基本」という予断は命取りだ。

例えば昨日の大会でも、いつもの家伝剣術を演武しながら不覚をとった。

我が正面を振り下ろしてきた父の木刀を、いつものように右横に張って払ったつもりが、思いのほかその切っ先が伸びてきて、我が正面を突破し、私の素面の眉間あたりを軽くなぎられたのである。

(後で父によると、背中の肩胛骨を使うと打ちが伸びるものだと笑っていたが…)

瞬間「しまった」と思ったが、石頭だから無事だった。

むしろその失敗でその後の演武はハラが据わった。

家伝剣術伝書が「致命傷にはならない程度の初太刀を受けた敵が、かえって迷いや消えて心気が定まり、手強くなることがある」と書いていた、実戦を通じた歴史的経験知は本当だなと感じた。

私自身がそうだった。父が正面を斬り下してくるのを、我も斬り落として即座に袈裟に斬る技では、勢いあまった私の木刀が父の頬をかすめた。

(このように公衆の面前で、おもいきり木刀で素面を打ち合う父子は、あまり多くはないだろうなあ。)

これらのニアミスは、はたから見ていた方々には気づかれていなかった。でも翌日は眉間がヒリヒリする。軽い頭痛もそのせいかな。