古剣稽古日誌

古剣稽古日誌

ニュースは「メジャー移籍」ばかり。「日本中が注目しています」とキャスターが言う。

全く関心がない私にとって不思議でならない。そんなに重要なことなのか。

この大変な時代だからこそ、もっと人々へ知らしむべき、報道すべき社会問題がたくさんあるはずだ。

さて先日、父から木刀で眉間を打たれたこと、そして他人の稽古で互いに打ち合わせる瞬間に空振りしてしまった場面を目撃して、なにか考えさせられた。

これはつまり、いくら速く動いているつもりでも、心身の動きに隙間が、間欠があるからだ。

隙がないとはどんなことか。

速かろうと遅かろうと、流れる水そのものに間欠がないことではないか。

稽古のなかで、己の心身の間欠に気づき、それを打ち消して動きの質そのものを書き換えていくこと。

それができるのが形稽古なのではないか。

竹刀稽古を中心にすえた千葉周作は、関東各地を武者修行した記録、文政7年の「剣術物語」のなかで、形稽古の弊害を述べている。

つまり思考で作った理合を優先しすぎ、動けなくなって自縄自縛となっている状態を「理害」とする。

すなわち、近世後期、すでに形の稽古方法はわからなくなり、単なる手順を踏むだけの技法となっていた。

それは190年たった現代でも同じである。いやむしろその「理害」たる理さえも失われ、本当に手順だけなのだから、さらに困った状況である。

だからといって、自由に動いていれば、間欠が消えるかといえばそうではない。

どこかで書き換えていく稽古が必要となる。

おそらくそのような稽古は、筆舌に尽くしがたい微妙な感覚とセンスが要求されるからこそ、残らなかったのではないか。

しかし、千葉周作の頃の人がわからなかったから、現代人がわからないとは限らない。

これだけ情報が流通していれば、才能のある方は、形骸化した教えからでも、活きたメッセージを読み取る人が出現するだろう。

そして甲冑稽古。

顔を覆う面頬(めんぽう)をつけたときと、鼻の部分だけはずすしたときの感覚の差が面白い。

鼻頭を外気に露出するだけで全身の感覚が変わる。覆っているときよりも全身の自在さが全く変わる。

もしかしたら鼻頭は、魚や四つ足の動物のように、全身の動きの方向性を決めているのではないか。

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