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実家で餅つき。
杵と臼で搗くことは稽古になるし、市販の餅よりコシが強くて美味しい餅ができる。
さて、十数年前からか「竹刀を刀だと思って稽古しろ」という固定観念と権威主義から解放されて、誰もに開かれた民主的な竹刀稽古独自の世界を切り拓こう、という活動が提唱されている。(例 大塚忠義『のびのび剣道学校』窓社、1990年)
それは全くその通りだろう。
もともと戦技だったものが、楽しいスポーツへ変化した種目はたくさんある。
もう刀の時代ではないのだから、そこから自由になり、竹刀競技特有の素晴らしさを進化させ、競技として堪能していくことも、充分な人間形成の道となるだろう。
だが、もしも武として稽古するとしても、「竹刀は刀だ」と思うようにして稽古する方法そのものも大きな問題性がある。
なぜならば、あらかじめ「刀とはこんなもののはずだ」という、己の想定内でゴールを決めて閉じてしまい、それ以外に展開する可能性を自ら失ってしまうからだ。
ことに実物の刀を知らないと、ますますそれはバーチャルに耽溺してしまうことになる。
あらかじめ道具とはこんなものだと決めつけること。
楽器を演奏するアーティストならば、そうはしない。それではいい音楽は生まれないからだ。
自分とは異なる道具そのものに聞き、いかのその機能が発揮されるか、導いてもらうように稽古していくことが、旧態を打開し、未知なるものへ自分を開いていくことになろう。
また道具だけではなく、稽古方法もだ。
いくら自由に打ち合おうとも、それが一定のパターンの組み合わせであること。
しかも、ひとつひとつの動作についても「打ったあと〇〇しなくてはならない」「こう打つのが気剣体一致だ」などと、最初から一定の外形にあてはまるように稽古すること。
それを心身に、美徳、快感として刷り込んでしまうほど、それ以外への展開を自ら閉じてしまうことにもつながる。
個人だけの話ではない、その世界全体もだ。
もしかするとその自縄自縛は、かつて竹刀稽古を整備した千葉周作が、形骸化して自縄自縛となっていた形稽古を「理害」と指摘していたことと、重なってくるのではないか。
すなわち、彼が指摘していた「理害」とは、竹刀か刀かの問題ではなく、現実から遊離した理屈のことではないか。
もとい。
竹刀を使うならば、竹刀に導かれ、それ独自の世界観を磨いていくことが素晴らしい。
ということは、同様に、刀そのものをガイドラインとして稽古していくことにも意義があるということだ。
例えば、竹刀技法が、常に打突することを美とするならば、その運動構造は主に打点の連続で構成されていることになる。肉体がそう動けば精神面もそう導かれよう。
一方で刀は、打突だけではなく、多種多彩な技法を可能とし、少しも居着くこと、動きに間欠があることを許さない遣い方を求めてくる。そうなるから素手の体術にも応用できる。
竹刀とは、少々異なる独自の世界観、心身が養成されるのだ。
竹刀と刀、どちらが優れている文化か、ということではなく、それぞれ異なる特長があるということだ。
刀の技法から生まれ、独自の世界を切り拓いて大普及した竹刀稽古だが、歴史的変化のなかで、ときには自分のルーツを再検証したくなる場面もあろう。
そのときに、刀から生まれた心身と技法で、実際に数百年をサバイバルしてきた家伝剣術は、少数派となった原種のひとつとして、何か提示できる存在でいるべきだろう。