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息子が仮面ライダー鎧武という、戦国時代の甲冑を模したヒーローのベルトを着けて喜んでいる。
親父は、当世具足の鎧を着て、稽古して喜んでいる。なんとまあおかしな親子だなあ。
さて、形より自由な稽古だというが、それほど自由でもない気がしてきた。
よくよく見れば、複数の定形パターンをすり込み、反射的にその組み合わせが出るように稽古している。
互いにルール内での定形パターンだから、予測も想定内で済む。
あとはフェイントの応酬で誤動作を誘う。
結局パターンのなかでのやりとりならば、否定している形稽古、またはジャンケンの構造と同じか。
そのような技法は、整った環境で、同じルールを共有する者同士ならば有効であるが、
そうではない場、しかも異質なものさえ相手にしなくてはいけない武としては、
「こうくるはずだ」「こうするのが正しい基本だ」「正しい剣だ」という予断は命とりだ。
仕事もそうだ。
職種が変わるたびに「郷に入っては郷に従え」と学んできたが、どこの世界にも、その世界のモノサシこそ正しく、外部にも通じる普遍的なものと勘違いして、他を裁く人がいる。
一生、内海で泳いでいられるならばいい。だがこの混迷の現代ではそうは許されない。
必ず、己の「正しさ」が通用しない外海を知らされ、泳ぎだしたとたんに、あれほど達者だった人が…。
武の稽古とは、己の方法が通用しない世界があることを畏れ、どうすればいいのか常に探求していくことではないか。
だからこそ、日々を生きることにつながるのだ。
ではどう稽古したら、パターンの弊害を超えていけるのか。
それも、最もパターンに陥りやすいとされる、旧世紀の遺物、形稽古を基盤として、それを目指していこうというのだから、私は無謀だなあ。
でも、だからこそ、ここにはなにか手がかりはたくさんあり、できそうな予感もあるのだ。
すなわち、パターンやフェイント、反射をこねくり回すのではなく、動き全般に通底する、根本的な原理そのものを探求していければ。
ガイドラインとなるこの家伝剣術が、限られたコートなかの競技用ではなく、混沌とした実際の現場を、数百年、確実に乗り越えてきた存在であることを、私はもっと誇りに思い、信じていい。
たとえ小舟だろうが、大船だろうが、船としての構造ができていれば、大海に浮かべて進んでいくことはできようぞ。