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数年前か、流祖がNHKドラマになったころ、
我が家伝剣術と、全く同じ流派名で「剣術」と「柔術」のDVDが出版される広告を発見した。
中近世において家伝剣術流儀は、全国各地で流行っていたらしい。
20年前から私は、同じ系統の流派の痕跡を訪ねて、全国各地を資料調査して歩いてきた。
もし同名の剣術流儀が残っているならば、交流して研鑽したい。
だが、柔術や鎖鎌、民俗芸能のなかの棒術などの伝承は現存しているようだが、剣術流派は我が家以外、すべて途絶えていた。
三重県調査の帰り、ひとり空しく、鈍行列車の車窓を眺めていた思い出がある。
だから「今度こそは同流派のお仲間に会える」と、喜び勇んでお手紙と自己紹介をお送りした。
だが…。返ってきたのは出版社からの丁寧な謝罪文。
「失礼しました。「剣術」流儀ではないので、「居合」「居合兵法」として、流派名とタイトルを変更して刊行したい」という内容だった。
残念。また私の調査はふりだしに戻った。
仕方がない。他や歴史をではなく、自分を、これからを、歩いていこう。
ともかく稽古しているとき、生きている充実感がある。
幼い頃、剣道稽古は強制的に「やらされていた」。
しかし家伝剣術の稽古は自ら探究している。「もういい加減にしなさい」とあきられているぐらいだ。
現代の社会で、この剣術が一体何のトクになるのか。そんなことどうでもいい。私は楽しいのだ。
いまこの瞬間の心身の喜びこそが、歴史と未来への法灯をつないでいくのではないか。