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仕事が終わり、無刀氏と夜の北辰堂で落ち合う。
真っ暗な部屋で剣道着に着替え、火の気のない、零下の板の間に立つ。
ジッとしていられない。小学生の頃、早朝、霜が薄く張った板の間のうえで、素足で毎日稽古していたことが信じられない。
八十に近くなった親父は、今も毎日ここで稽古を続けている。首を垂れてしまう。
なんとなまくらになった私か。少しでも温まるため、狂ったように木刀を素振りして待つ。
それでも気づきはあるもので、左右の連続袈裟斬りが面白くなってきた。
ほどなく無刀氏到着。今度の寒稽古納め会、剣道の先生方の前で、本覚克己流和(やわら)を演武するための稽古だ。
第二次世界大戦後、すっかり剣道稽古がメインとなった北辰堂で、弘前藩時代の古流柔術と、林崎新夢想流居合が演武されるのは、100年ぶりではないだろうか。
よって現在70歳代の方でも知っている人が少ないだろう旧世紀の技を、若輩者がやるのだから、歴史とはこっけいなものだ。
まだまだ下手くそな私だから、板の間での古流特有の受け身に慣れない。
寒さで筋肉が硬直しているからか、激しく打ち付けた両脚の筋が一瞬、肉離れしたかのような痛みが走る。
それでも面白い。
剣道をやると、どうしてもガンガン攻めて、相手と対抗的に身体を使ってしまう傾向があるが、
柔は、オレがオレが、という対抗性と力みから抜け出し、自他ともに混然一体となった方が、より技が効くことを、ありありと教えてくれる気がする。
受け身もそうか。板の間と喧嘩するような受け身では、私は壊れていくばかりだ。
翌日は、数年ぶりに先輩の訪問があった。10年前、ともに修武堂を立ち上げたお仲間である。
いろんな稽古で切磋琢磨したことが懐かしい。いまはそれぞれ違う武の道を歩んでいるが、独自に居合の探究稽古を続けているそうで、そのブログを見て、高いレベルに敬服した。
そのような武友が、同じ津軽の地で稽古されているかと思うと、なんだか胸が熱くなった。
そうなのだ。競技スポーツとは異なり、どこにいても、組織に加入していなくとも、己ひとりで自由にどこまでも探究できるのが、心身の哲学たる、武の素晴らしいところなのだ。
私も、己に与えられたこの役割を全うすることで、この世界の深さ、豊穣さを学んでいきたい。