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永井義男『剣術修業の旅日記 佐賀藩・葉隠武士の「諸国廻国日録」を読む』(朝日新聞出版、2013年)は大変面白い。
幕末、鉄人流という二刀流を修めた佐賀藩士牟田文之助が、日本各地を二年間、武者修行して歩いた記録である。当時の剣術の実態が見えてくる。
私も数年前、某師範から原史料のコピーをいただいて拝見したことがある。
牟田が交流した相手には、現代の我々が神格化している有名な剣豪達も記録されている。
だがその日記を見れば、決して超人ではなく、勝ちもすれば負けもし、体調不良で試合を断ることもあるなど、彼らが生身の人間であったことが伺われ、大変興味深い。
永井氏が指摘するように、当時の他流試合は、決して時代劇のような「命をかけた勝負」ではなく、まるで現代のスポーツや剣道部の遠征、交流試合のような雰囲気だったようだ。
事前にきちんとアポイントをとったうえで訪問し、互いに面小手を着け、竹刀で地稽古をする。
審判がいない、大勢での合同稽古だから、勝敗はそれぞれの見方による。若く意気盛んな牟田が常に「自分の方が優勢だった」と身びいきして記録しているのは微笑ましい限りだ。
稽古終了後は懇親会も開く。観光地巡りもする。藩からは費用も出ていたようだ。
現在のように、各流の技術やルールが統一化されてはいなかったろうし、まだ刀が実用の器だったから、今の剣道よりは激しく、多様な技法があって、少々異なる感じだったろう。
それでも当時すでに、誰しもが安全に交流できる競技としての近現代剣道の素地が形成されていたといえよう。
筆まめな牟田の稽古日記だが、試合で「何割自分が優勢だった」とか「相手は弱かった」という主観的、抽象的な感想ばかりで、剣術専門家としての具体的な理合や技術論については、あまり書いていないのは残念だ。
もしかすると当時すでに、各流で開祖達が発見した、緻密な理合等はあいまいとなってしまい、現代の我々のように、考えるよりも、ともかく打ち合う競争がメインとなっていたのか。だからこその竹刀稽古の大流行なのだろうが。
親近感を持つとともに、ある面では少しがっかりした。
幼い頃から竹刀剣道をやらされていた私にとって、ただ打ち合うばかりのやり方は、刺激と爽快感に満ちてはいるが、「負けん気」それだけだった。
今日は頑張ってなんとか勝ったが、自分より強い者はいくらでも出現してくるだろう。今日は格下の敵に勝とうとも、体調が悪い日はわからない。
あたかも、毎度やってみなくてはわからないジャンケン、あてにならない賭け事、砂上の楼閣に思えてならなかった。
かつ、とてもこの竹刀稽古が、真剣の扱い方につながるとは、子供心にも思えなかった。特に時代劇の侍のように、異なる武器や素手のときでも戦えるようになるとは全く思えなかった。友達との喧嘩はどうしようとまで思ったぐらいだ。
このような、頭ごなしに牛と馬が喧嘩しているような、不確かな方法に、往時の武士達が、己の命だけではなく、集団の存亡をかけることができたのだろうか。
その答えを必ずしも近世の武士達全員が、知っていたとは限らないのではないか。
試合で優勢だったと誇る牟田でさえも、相手にしたのは剣術家のみで、桑野藩風伝流槍術との試合は断っているのも、専門種目を区別する競技的な面さえ感じた。その十年後には、専門種目を選ぶ余地もない、幕末維新期の動乱を迎えるのだが。
一方で現代の形稽古もすっかり衰退していることも否めない。例えば全国連盟の機関紙で、あの超難関の八段昇段試験における形審査の講評を拝見したが、片田舎で拙い稽古をしている私でさえ目をうたがった。
その評価では、体操競技のように、手順と外形のみしか見ていない。本気で生きた形を実用で使おうとする工夫が、全く感じられない気がしてならない。やはり形は、単なる権威化装置や、セレモニー化してしまったのか。現場ではもっとなにかあると期待したい。
確かに形稽古でいくら精妙な技を身に付けようとも、それは一定の条件内での話で、実際の攻防、変化のなかでそれが使えるかどうか、どうその理を活かして無形になっていくのかは別の話だ。
永久に無理だと思っていたその巨大な断層が、ここ数年でようやく少しずつ埋まって、形と地稽古の区別が曖昧になっていく予感がしつつある。そうなれば望外の幸せであるなあ。