ここ十年着ている剣道着と袴。

これで、剣術、剣道、古流居合、抜刀、棒術、槍術、柔術、現代格闘技、野稽古などいろんな稽古をやってきた。胸元の紐などは柔術稽古で何度も千切れたし、袴には真剣の突きが刺さった穴が二つある。

私にとって肉体の一部のような愛着があるのだが、それを見た剣道の先生が「何年前のボロを着ているのだ。買い換えたらいい」と言われた。

そうか。現代剣道は着装も評価の一部であること、そして稽古は激しい打突の攻防でも立ち姿が多く、柔術や居合のように、座ったり、寝たり、投げたり、投げられたり、受け身をとったりするような、多彩な姿勢や所作を行わないから、着くずれも少ない。そのため私のような、いろんな稽古で使い古して、あちこちすり切れたような稽古着は、野蛮人に見えるのかもしれないな。

本覚克己流柔術。やはり柔道畳の上は安心して稽古できる。なんぼでも受け身がとれる。だがこの安心に慣れてしまえば、現実から技法がズレていく。世界中どこでも畳やマットが敷かれているわけではないから。

林崎新夢想流居合。仕太刀は小刀。その小刀に有利な近接した間合いのなか、我は三尺三寸の長刀で対する。

今までなんとしても間に合わなかった最難関課題は次のふたつ。

まず、目の前に小刀を帯びて座っている仕太刀が、抜刀しようと柄に手をかけるやいなや、扶据で座っている我は抜刀すること。

そして、腰を下ろした立ち膝のまま、天の横一文字から天の縦一文字の構えに変わるやいなや、仕太刀の小刀が喉元を突いてくるのを、身をかわしながら、相手の左首を二躬に斬ること。

いずれも全く間に合わない。これが可能となれば林崎流の根幹が実感できてくるのだろうが。

立っているならばなんとかなろうが、座ったまま両脚が地に接していて素早く動けない。本当に人間がこんなことできるのかと、私は一生できないだろうと天を仰ぐばかりだった。

ところが今日、なんと間に合い始めたか…。可能となる段階に指がかかり始めたようだ。感覚とすれば、座っていて座っていない、身を浮かす、足を使わないというか…。ともかく大きな希望が湧いてきた。

竹刀稽古。竹刀剣道やスポーツチャンバラのような、手首のスナップで打つような競技的技法では刀法とは乖離してしまう。そのような技法に陥らずに、刀法を活かしたままの自由攻防稽古を探究。

格闘技マスクと手袋だけつけて、袋竹刀、木刀、刃引き刀と持ち替えながら、S氏、抜刀術T氏、剣道有段者で直心影流を修めるM氏らと実験稽古。いろいろ失敗しながら、いろんな気づきがあった。

刀は必ずしも叩かずとも触れたら切れる。それを使って攻防するうえで、古流剣術技法がかなり有効な現実的技法であることが、改めて感じられてくる。

特に家伝剣術の構えや身法が、かなり体術的要素を含むとともに、接近した間合い、接触した状態における攻防一致について、重要なことを示唆していることに気付かされた。

そして素手でナイフの攻撃から身を守る技法の探究稽古。これは難しくて、特にメチャクチャに振り回してくる相手にはまだまだ工夫が必要だ。