稽古とは何か。

戦いでは、敵だって懸命だから、かりそめの攻撃では不安であり、なるべく長引かせず、確実にしとめたい。
これが、ポイントをかせいで総合点で勝敗を決める競技やゲームとの違いか
確実にしとめたいから相手は他のどこでもな、最も効果的な箇所、すなわち我が一番狙われてはマズイところを攻めてくる
(もし、敵がそうではなく、中途半端な攻撃を仕掛けてきたならば、それは逆に当方が相手を崩していることにな、当方に可能性がうまれる。)
たいがい自分の弱点は自身が一番痛感しているものだ

いや、己の弱点を察知する感覚、自分の有り様を客観視できる感覚に疎ければ命取りなのだ。

だから武の稽古では、毎度得意な自己表現ばかりいい汗をかいてスッキリ自己満足!では、未知の危機に対しておぼつかない。
よって稽古では、敵役となる師匠が、私にとって、最もマズイところを教えるため、そこを攻めてくれる。どうすると!?。

おそらく古流の形はそのように編まれている場合が多いだろう。
己にとってぬきさしならないところ、できれば避けてほしい心身の不足あえて見詰める。

だから稽古なのか。
前近代の武芸伝書の多くはこう記す。

この世にはどれほどの強敵かいるかわからず慢心してはいけない

だから未知の危機に対して、あれこれ手段を付け加えていくのは途方もないことであり、それよりも、己自身の不足を解消していき、十全たる存在となれば、おのずと破れにくい存在になるだろうと。
では具体的な稽古はどうなるのか。

例えば、近接した間合いでは、槍や薙刀、棒、長い刀は機能できなくなり、逆にさっきまで無力に近かった小刀の立場か反転し、かなり有利になる。
あえてその状況で、不利な長い刀で稽古する林崎新夢想流居合武の稽古の典型例かもしれない