仕事帰り、ひとり暗夜の雪道を歩いていると、己がとぼとぼ歩いている、武の小路について考える。

「私は有名な○○団体に所属している。」と胸を張りたくなり、

「あの先生は素晴らしい」と信仰してしまうことがある。

「そこ」に安住し、まるで大船に乗ったような、自分自身も急に強くなったかのように思ってしまう。

または「教えを守るのみ」で、そこから一歩も出ようとしないことが始まる。

これは危うい。

なぜならば、できようができまいが、ピンチは、所属団体窓口や師匠を通してではなく、直接、私にやってくる。

あたかも「正式な歩き方」を習ってから歩こう、「正しい食べ方」を受講してから食べよう、「正しい生き方」を知ってから生きよう、という愚かさではなく、すでに己はそこに投げ込まれており、本人でなんとかしなければならない。

そのことが競技スポーツとは異なる点であり、我々が日々生きている行為そのもの、哲学や思想とも似ている。

だから、私自身がまず「できない現状」を自覚し、己にとって何が足りないのか。

セットメニューではなく、自ら探り、自身の足で歩かなくては、永遠に上達はありえない。

そして、いくら優れた「伝統」でも、我々は、過去の先人達と全く同じ社会を生きていけるわけがない。

過去や歴史に依存するばかりでは、せっかくの遺産を食いつぶし、風化させてしまう。

僕の前に道はない、僕の後ろに道はできる」という、高村光太郎「道程」のように、

各世代が初めて体験する時代相を、各代なりの方法で生きのびたからこそ、この歴史と伝承が続いた。

つまりは、いくら拙くとも、すべてはこの小さな一歩から始まるのだ。