古剣稽古日誌

古剣稽古日誌

事理一致とは何か。

「私は形稽古しかやらない」という師範もいる。それもひとつの方法である。

しかしその形は、初発において、混沌とした世界のなかから開祖が見いだした理である。

だからその成立には、成功ばかりではなく、多くの失敗や不協和音があり、それらが背後から裏打ちしてくれたはずだ。

まるで我々が、誕生してから、こけつまろびつしたうえに、平地であろうと山谷であろうと、どこまでも歩いて行ける、無形の理を体得してきたように。

ところが、形と理合が完成され、数代を経て、純粋培養となったとたん、

いままでその功を背後から支えていた不協和音が失われて形骸化し、形のための形、特定の環境のなかでの芸術となってしまう場合もあろう。

正しい文法が、日常会話でそのまま有効ではないように。

人工プールで泳ぐのと荒海で泳ぐことが違うように。

では逆に「私は竹刀稽古(自由稽古)だけで充分」なのか。

確かにそれも有効だ。

だが、いつも己の得意な技で稽古して、一世代の限られた経験内だけでは、永遠に気づけない方法が出てくる。

文法よりも実践だと、覚えたスラング会話が、仲間内には有効でも、異なる集団、精密な内容には通じないように。

ひとりの壁は、形に埋め込まれてきた、幾世代にもわたる経験智に聴けば、打開できることも多い。

このような状況ならばどうすると、形が私の未知を、無理難題を求めてくるから、自分の想定内が打破される。

もしも、教えを活かせないとしたら、私自身の求め方、視座そのものを見つめ直すべきだ。

形を見つめるとき、理屈と整合性をとろうとして、あんまり思考でキチンとやりすぎないことではないか。

特に組織化し、制度にしようと外形的規準を作るほど、生きものとしての形に内包されていた無形の理、生命が壊れてしまうのではないか。

たぶんそうやって近代以降の形は失われていった。いまでも我々はそうしていることが多い。

例えば、コップ(形)の一番の役割は、なかに入れた水(理合)をもらさず運ぶことだ。

その機能を満たしていれば、コップのカタチや色やデザインなどは二の次である。

だから形も、機能そのものを壊さないよう伝承するために、副次的な外形的の歴史的変容もあろう。

しかし中身の無形の理だけ変質していなければ、その形は使えるはずだ。

現代の修行者が、よくよく注意しなくてはならないのが、規格化された制度からのプレッシャーである。

「勝手に工夫したらダメ、追放するよ」という叱声で動かされるがコドモだとすれば、己の内なる声で判断し、この武の細道を歩んでいける大人でありたいと私は願う。

いざとなれば大制度は、最後まで個人の面倒を見てはくれない。

この武の稽古通じて、人生の困難に直面し、生きていくのは他の誰でもない、己自身ではないか。

 

いやあ、それにしても、世の中からズレており、全くはやらない我が道そして修武堂…。

でも、新聞を見てなるほどと膝を打ち、己をなぐさめたものだ。

すなわち、営利活動というものならば、当代への妥協や迎合がつきものであり、普遍的な文化や次世代に変革をうむような啓蒙的活動、使命的な社会行為とは相容れないことも多いのだという。

 

そういえば多くの場合、新しい価値観は、それまで我々が目もくれなかった、予想もしない場からひょっこりやってくるものだ。

 

当世はあきらめ、100年後の魁となるべし…。

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