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古剣稽古日誌

古剣稽古日誌

多くの哲学を知っている者が、必ずしも人生の達人ではないように。

多弁であることが必ずしも武の達人であるとは限らない。

(まあ言葉もひとつの兵法、武器であるかもしれないが)

今日の雪道はアイスバーンだった。これは少しでも地面を蹴ったり、踏みしめるとスッテンコロリンだ。

摩擦係数がゼロに近いのに、我ながらどうやって歩いて前に進んでいるのか…。

と考えなくても歩けているからいいではないか。

摩擦係数ゼロのところを走って滑り、数メートルふっとんだことがある。

いままでの人生で雪道で滑って転んだことは数限りなくあるが、そのときはまるでキツネにつままれたような、生まれて初めての不思議な感覚だった。

つまり、転ぶ気配も、転んだ実感も全くなく、倒れてからはじめて転倒している自分に気づいたのだ。これほどマヌケな私かと絶望するぐらいだった。

そのとき思った。よく聞く合気や柔術の達人に投げられ、気がついたら倒れていた、投げられたのか自分で転んだのかわからない、といった感覚は、こんな感じなのか。なにかヒントがあるのではと…。

さて、よく観察すると雪国の我々は、目の前の雪質を見た瞬間、瞬時にそれに合わて歩法を、身体の状態を変えているようだ。それを老若男女、無意識のうちにやっている。

街道の雪の状態や起伏は、同じ日でも同じ通りでも様々に千変万化するから、歩みも心身も多彩、まるで昔の漁師が潮目を読むように、千変万化しながら歩くしかない。。

これは都市部のように、安全が保たれ、フラットか、スロープか、階段か、という数パターンしかなく、万年同じ状態のアスファルトを歩く生活とはかなり違う。

だから雪道を歩くことは、実はかなり高度で優れた心身の稽古であり、それを毎日やっている我々はかなり鍛えられているはずだ。

ここ数日の雪は量が多いが暖かい。よって寒さで居着いていた心身が、すみずみまで流れるようになめらかになってくる。

職場の昼休みでは、毎日、軽めの昼食を済ませると、こっそり10階までの階段を速足で最低2往復する。ただの昇降ではあきるので、いろいろ身体の状態を変えて工夫してみる。

今日はあえて、身体に命令して操作するのではなく、なるがままにゆだねて連れていってもらうことにした。

よってどこかで踏ん張ったり、がんばったりしない。全身まんべんなく、片よりなくと歩いていると、今までの私の歩行は、ほとんど背面へのバランスが足りないことに気がついた。

上下左右前後に片釣りなく…と歩き始めると、腰が据わり始めるが足元は軽いという面白い感じに。

世界と対立したり、自分を弾劾するばかりでは間違いではないか。

自分で勝手に作った良否を問うのではなく、ありのままを受け入れることができないのは、まるで駄々っ子のような幼さだ。

己自身と、己が置かれている「いま」を認め、なにがあろうと完全にゆだねてみようと思えば、呼吸が深くゆっくりラクになる。

すると、相手と間合いが詰まって緊迫するような瞬間でさえ、落ち着いて楽しめるような感覚があり、その分、彼我の関係の潮の変わり目が見えてきて、焦らず落ち着いて対応できる。

現状がどうであろうと、武をやると自他ともに幸せになる、ということがありそうな…。

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