あの3.11から、とうとう3年たった。

あのとき私は、岩手県遠野博物館のなかにいた。

ジオラマ模型作動のボタンを押した瞬間に、揺れが始まって被災し、さまようことになった。

その夜、冷たい避難所の床に寝ころびながら、峠むこうの沿岸部が、次々と津波で壊滅したという、ラジオニュースを聞いていた。

「家族はどうしているか。なんとしても家へ帰る」

翌日は一日かけて約40キロ歩いた。

頭の上を何度も自衛隊のヘリが飛んでいく。

革靴で靴ずれが痛かったが、家伝剣術小太刀の歩法に救われ、盛岡駅隣の避難所へ到達した。

毛布とバナナをもらい、爆発している福島第一原発の映像を見た。

なんとか青森へ帰った私を見て、家内は「野生の顔をしている」といった。

ようやく風呂に入ったが、ふと、あのお世話いただいた現地では、まだまだ多くの人々が逃げられずに苦しんでいられるだろうことを思うと、私だけ逃げてきたようで、やましい気がした。

比較的、災害が少なかった津軽は別天地のようで、少しノンキに見えた。

だからか、いろいろ深刻ぶる私を「大袈裟だ」と笑う人もいた。

昨日のことのように思い出す。

日本全体が、あれだけ悲惨な教訓を得たのに、被災地の苦しみはまだまだ続いており、我々も解決策の見えない原発事故の深刻さに気付きたくないと、目をそらし続けてきた気がしてならない。

環境の激変に対応できず、従前のままでいる生物は絶滅するというが、もしかして文明もそうなのか。