5歳の袴着(はまかぎ)の儀式で家伝剣術の稽古を初めるのが代々のしきたりで、6歳からは普通の竹刀剣道も習った。

 

しかし、もしも竹刀が無いときでも、喧嘩で剣道は使えるのだろうか。小学校から高校までずっと自信が無かった。

 

「そんなこと考えるのは正しい剣ではない」と叱られそうだが、子供の素朴な疑問だった。

もしも剣道が、かつての武士が使った技ならば、刀が無いときでも、どんなときでも、これで泥棒や暴漢に遭遇しても応じられるはずだがな…。想像できないな…と。

 

いま思えばそこに、竹刀剣道の「武」としての不自然さ、競技的な面を感じていたのだ。

よって、稽古がそのまま護身に直結するだろう、柔道部や空手部、ボクシングの友達の必然性に、引け目を感じていた。

 

なぜ竹刀剣道の技術が不安だったのか。いまならその幼い悩みを説明できる。

すなわち、いくら竹刀で激しい攻防を行っても、それは防具で我が身を覆っているからこそ可能な技法である。

つまり実際の闘争で、接触の後先を競うだけでは、互いにボロボロになるからだ。

それは長じてから、小手をつけずに合い面を競って、相手の面金に親指を差し込んでしまい、骨にヒビを入れてわかった。

 

ならば先人たちはどうしたのか。古流剣術の所作を見ればみえてくるだろう。

その動きは、わたしたち剣道経験者から見ればかなり異質で、理解できない。

その理由は「ルールが違うから」「真剣を使っているから」ばかりではない。

剣術が、防具無しでもボロボロにされないよう、剣で攻め、剣がガードとなる行為を両立させている技法だからだ。

 

人と刀が渾然一体となれば、さらに攻めと防御が一致し、手の付けられない魔物になるのではないか。

古人はそれを仏教の教えを引き「八面玲瓏の身」「卍抜き」と例えたのだろうか。

 

そのことを推測する拙い手がかりとして。

ようやく、稽古のなかで、杖の動きと剣術がつながりはじめたか。

 

道具ばかりを優先するのではなく、己の身体そのものも主体的に働かなくてはならないようだ。

古来から、剣術も槍術も、相手の身体で、なぜそこに目付をするか。

身体の動きの要(かなめ)だからではないか。それは相手だけではなく己自身も同じこと。

 

家伝剣術の大太刀「生々剣」、小太刀「性妙剣」の形で体感すること。

父が竹刀剣道の地稽古のなかで、自ずと発見した有効な構え(これは一般剣道の基本とは少々異なる)が、はからずも、家伝剣術初期の伝書が説く構えと重なること。

青森県南部地方に伝承されてきた山伏神楽の「扇舞」で、ときどき身体が消えること。

津軽地方の芸能が「足踊り」ではなく、なぜ「手踊り」なのかということ、

魚が何で素早く動けるのかということ。

 

それらのヒントは、ずっと前からすでに、私の目の前に提示されていた。

なのに、私の固定観念と、さらに一歩その奥へ踏み込む覚悟のなさが、見えなくしている。

 

この稽古、というか身体調整は、誰でもどこでもひとりででき、工夫は尽きない。

正しい素振りを繰り返していると、すぐにあきてしまう根性無しの私だが、

これは素振りではなく、即興のジャズのようで、次々いろんな動きが発生し、寄せては返す波にもまれているようで、飽いているヒマがない。

 

重さのある木刀でなければ、と思っていたが、そうではない。軽い袋竹刀でも。

もしも刀が無くとも、我が身体のある部分を刀の替わりにすると、同じように稽古できそうだ。

しかし、やはり、板状で反りがあり、鍔が付き…という、独特の不安定さと奇妙なバランスを持つ刀に導かれると、本当に思いも寄らぬ展開に恵まれる。

 

固着するのでもなく、ゆるむのでもない。

鈍才が想像するのだが、先人たちはおそらく、かなり即興的に生まれる動きから、技を発見し、形を提示したのだろうか。

ならば我々は、ずいぶんそれを固く死なせてしまっている。

 

ただし気付いたのが、狭くて家財道具のある居間なので、物を壊さないように遠慮がちにしかできなかった。

即効の武技にはならずとも、心身の調整、感覚を磨くことにおいては、なにか面白そうな展開になりそうだ。

家伝伝書では目をつむれば己の居着きが自ずとみえてくる、というから、あちこちぶつかってモノを壊さないように、次は広い道場でやろう。

 

さらに相手をお願いして、形稽古、竹刀稽古、試し斬りのなかでも検証していこう。

 

拙くとも探究する稽古は、毎回新鮮で楽しい。

 

今度は、どんな新しい風景が見えるかな。