みんなでH氏から、小舘俊雄伝の小野派一刀流剣術「詰座抜刀」を習い、今日は五本目までいった。

大太刀を帯刀して扶据し、小太刀へ対する。ところどころ林崎新夢想流居合に似ているとともに、帯刀したままで体術や柔術のような技が出てきて大変勉強になった。

そして甲冑での稽古。

「鎧を着たら重くてよく動けない」という俗説は、実際に着て工夫したり、稽古した実体験がない人のカン違いである。

鎧が不便なものならば、実際の侍が、それで生死をかけた戦場には行ったはずはなく、むしろ便利なように開発された存在であるはずだ。

おそらく慣れれば、まるで現代スポーツのアンダーウェアのように、動かすべき部位、動かさない部位が自ずと導かれて、よりよい動きが出るようになっているはずだ。

久しぶりに当世具足(荒物)を着て、刃引き刀や兜割りなどで実験的な組太刀。

互いに充分に配慮してやっているが、一歩間違うとケガするという緊張感がある。

特にきちんとした伝統形を遣うときは安全だが、少し崩した技法になると、ときどき互いに思いもよらぬ攻防となり、ヒヤリとする。

そんなときこそ、ガンガン行くのではなく、波乗りのように相手の動きに和しながら動くことが、事故から身を守ることになる。

稽古するなかで、先日の身体のありようを試してみる。

ともかく、鎧を着て踏ん張ってやっていたら、疲労するばかりで動きも鈍重になるだけだ。そんな徒労はやりたくない。

先日の杖や剣でどんどん動きが発生するような気づきを試す。

すると重い甲冑を着ていても、身体の重さをあまり感じることなく、足元も軽やかなぶん、斬りが減殺されず、よりラクになり、有効だと感じた。

鎧を着ると身体が浮いているようで、どこかハラはどっしり据わっているという面白い感じになる。

また鎧を着て前へ倒れ込むようにすると、面白いことに鎧の重さで前へ自動的に引かれるような流れが発生するから、それに身体を預けていけば、案外ラクに走っていける。それに加えて槍をかまえたり、肩に刀をかついだら、さらに推進力が増すだろう。

とやっていると、弘前市内のディープな歴史や文化を実体験するツアーをやられている会社の方が、新企画立案の参考として、我々の稽古を見学にこられた。

おそらく、あまりに時代錯誤、マニアックな稽古風景に驚かれ、逆にひいたかもしれないなあ…。

さて最近、妙な感覚が出てきた。これはあくまで拙い私見だが、武技には、具体的にわかりやすい形と、抽象的な形があるのではないか。

前者は、稽古の実感に富み、現代人や初心が好みやすく、流行る。

しかし現実の武技としては、ひとつのパターンであり、それ以外の展開に乏しく、その先が無い場合がある。歴史的には新しい形ではないか。

後者は、見栄えがしないからあまり流行らず、稽古の手ごたえも少なく、形骸化して儀礼化してしまうことがあろう。

だが、ものによっては古人が、即効性のパターンではなくその基盤、様々な動きを通底する共通原理に気づくための手がかりとして提示した所作である場合がある。

もしもその奥意に気づいた者は、そこから無限のものを汲み出せるだろう。古い流儀である場合が多い。

そしてこれこそ私個人の感覚であり、一概にはいえないが、前者はなんだかナマナマしい感じやアクがあり、後者にはそれがなく、涼やかである。

しだいに私は、後者を探究することが面白くなってきている。