何度も悩んできた剣術と剣道の違い。

今日改めてそれに気づかされた。

道場。互いに防具をつけて小学生の息子に剣道を教える。

古流に比べて実に理解しやすく、教えやすい。子供にとってもそうらしい。

明治生まれの祖父は、幼い頃から、旧弘前藩剣術指南番の高祖父から家伝剣術と、近現代剣道のルーツである「撃剣」(一刀流式竹刀稽古)を習った。

幼い祖父にとっては、ゆっくりとした動きで稽古する剣術よりも、竹刀稽古は躍動的で面白かったといっていた。特に学校の剣道大会で勝つようになると、ますます楽しくなったという。

だからこそ竹刀剣道はこれだけ普及したのだなあと実感。

そのあと、大人の方々が集まり始めるので、剣術や古流居合の稽古へうつる。

ここで求められる打ち、斬りは、さきほどの剣道のようなスナップで小さく速く連打するようなものではない。

求められるのは、打ち込んだ瞬間、受け止めた相手の構えと身体ごと崩すような斬りである。

かつ、斬りも足も、力んで動けないのではなく、次々変化できる軽やかな状態でなくてはならない。

その後、全身甲冑を着て、刃引き刀による組太刀稽古をし、その甲冑のまま袋竹刀に持ち替えて自由な打ち合い稽古をした。

慣れれば甲冑もそれほど重くはなく、案外自由に動ける。最近工夫している立ち方。T氏が紹介した「さらしの結び目で胴の重さを緩和する方法も効果しているのだろう。

何度か相手の前腕や拳を打つが、鎧を着ているから効果的ではないだろう。だから次はと深く入ったとたん、同時に相手の打ちも浴び、相打ちとなってしまう。

我が中心をとると、相手も同様になり、互いにそのなかでがんじがらめになって相打ちとなる。ずっとその繰り返しでそこから脱することができない。

これはどうしたものかと悩んでいると、ふと隣の会場の剣道稽古が目に入った。

互いに中段に構え、飛び込んで面を打ち、出小手を押さえたりしている。

私のようにいろいろ考えずに、割り切ってあのようにやった方がスッキリするのではないか…。

剣道の地稽古は、変化する間合いや位のなかで、出ばなを打つ先の先、おさえて引き出して打つ後の先など様々な技前の攻めや、相手の変化に応じることなどの応酬に習熟できる優れた稽古法である。

現代の一般的な「古武術」や居合道の稽古方法だけでは多くの人は、その限られた条件内のみで終始してしまう場合もあり、その場へ入る前、間合いへ入っていくとき、技前の彼我で刻一刻と発生する様々な変化のさざ波のなかでどうするのか、竹刀剣道のような地稽古をやればそれを補う効果もあろう。

だが、やはり、剣道地稽古のなかで遣っている技、所作は、やはり刀法そのものではないのだ。

これは、刀そのものを使って稽古をするようになると、誰しも体感としてわかってしまう。「竹刀は刀である」というロマンだけにはひたれなくなる。

例えば、中段に構えて中心を取り合い、互いに面を打つこと。

これは竹刀と防具に守られているからこそ可能な行為であり、もし素肌で刀や木刀(棒でもよい)で同じことをやれば、互いに無事ではいられない。いくら先に打とうが、すぐに相手の太刀も浴びる。

攻めて攻めて先をとって打ち込むという、いかにも勇ましい行為は、剣道稽古の現場で叩き込まれる。

だが、ひたすら攻めて先をとることが主流となったのは、実際の刀が使われなくなり、竹刀稽古が流行しはじめた近世後期のことであったことが、剣道史研究によって明らかになっている。

無謀な正面衝突を超える技法は、各古流の形に残されている。誰しも見ればいろんなヒントを得られよう。剣術は現代的な実用性に答えられないという人が増えているようだが、それはあまりに即物的で、理合を見抜く目がないからだ。

それを地稽古のなかでも自在に使えるようになるためには…。

そのためのヒントは、やはり家伝剣術形稽古のなかにあるような感が強くなってきた。

ことに、自分だけの稽古ではなく、ほかの方々とも稽古を共有し、意外な反応や質問を受けることで、自分の中を見つめなおして整理したり、懸命に言葉にし、課題をもらったりするなかで、自分自身も気づいていくことがあるようで、そのことで私も進める。感謝しております。