常に斬りが、剣が、そのまま身を包む甲になるからこそ、素面素小手の木刀稽古でも、致命傷とはならずに稽古できたのではないか。

木刀でそのことを学んで、真剣による闘争でもそうしたのだろう。

おそらくこれは当流だけではなく、往時の古流はみなやっていたことだろう。

それを見えなくさせているのは、幕末か近代からか、竹刀稽古で、打突部位を定めてしまったことだ。

そのことで何より先に、そこへの接触のみを争う技法へと特化してしまった。

つまり、そのままの技法では、実際の護身にはむかないのである。

スポーツチャンバラのような柔らかい素材ならば大丈夫だ。そんなこと全く気にせず、どんどん攻防を展開できよう)

大阪の国立民族学博物館には、明治初期の映像で、防具を着た人々が撃剣(竹刀剣道)をやっている映像があり、互いにひたすら速い連打を競っている。

幕末には、シナイ打ち込み稽古をメインにした新流たちによって、藩を越えた交流が盛んになっており、弘前藩の一刀流も他藩へ回っている(布施賢治「奥羽の剣術」2014年)。

おそらく当時の技法はすでに前述の映像のような、誰が勝ったかわからないが、ともかくワーッと叩き合って本数を競う、相打ちの繰り返しになっていたのではないか。佐賀藩士牟田文之助の撃剣廻国修業日記の記述もそんな感じがする(永井義男『剣術修業の旅日記』)。そこに戦国末期から近世初頭の剣術勃興期の開祖達のような冷徹な理合の分析や探究はあまりない。

知らないうちに私の心身も、そのような剣の変遷史の影響下にある気がする。

例えば、打ち合っているうちに、単純な相手への闘争心が燃え出てくればもう、応酬に夢中だ。

だからか、現代の我々は「大阿記」の記述が見えない。

蓋し兵法者は勝負を争わず。強弱に拘らず。一歩を出でず、一歩を退かず。敵我を見ず、我敵を見ず。天地未分陰陽不到の処に徹し、直ちに功を得べし」(『大阿記』)

「猫の妙術」にもある「我あるが故に敵あり。我なければ敵なし。敵といふは、もと対待の名也。陰陽水火の類のごとく、凡形象あるものは、かならず対するものあり。我心に象なければ、対するものなし。対するものなき時は、角ものなし。是を敵もなく、我もなしと云。物と我と共に忘れて、潭然として無事なる時は、和して一也。敵の形をやぶるといへども、我もしらず。しらざるにはあらず、此に念なく、感のままに動くのみ。

具体的に一体何のことを言っているのか、空理空論か全く意味不明なお経のようだ。

だが最近私は、ようやくそれが、具体的な実技とつながるだろう推測が持てるようになってきた。

拙いが勝手に、家伝剣術の大太刀「生々剣」と小太刀「性妙剣」稽古中に出現する状況を連想する。

相手はやる気で我が剣を切り落としてくる。

我はただ「勝負を争わず。強弱に拘らず。一歩を出でず、一歩を退かず。敵我を見ず、我敵を見ず剣を捧げていくだけ、誰でもできる単純な形だ。

このとき、我が少しでも勝負を争い、強弱を意識すれば、まことに簡単に打ち落とされる。

だが、いかに相手の剣が振り下ろされてこようと「天地未分陰陽不到の処に徹し」、具体的には、己自身の調和さえ意識していれば、なぜか我が剣は落とされない。

不安なほど全く我に手応えや実感はないのだが、ときには相手が勝手に空振りしてすぎていく。

形稽古のなかで何度できても、実際に打ち合い稽古をやるとなれば、

バカな、こんなこと通用するわけがない。先、先…!と常に攻めなくては絶対にやられてしまう、という不信が、固定観念が出てきてそこから抜け出せない。

だが、私は、すでにそれが可能であろう希望を、一度だけ体験している。

稽古仲間と袋竹刀による自由打ち合い稽古をしている最中のことだ。

なぜか急に相手が静止したままとなったので「これはひと休みかな」と勘違いし、相手をほうおっておいて目をつむり、ひとりで生々剣をやりはじめた瞬間。

実は知らない間に相手が打ち込んできていたのである。

たまたま目をあけた瞬間、その相手が空振りして驚いている光景が目に入り、私も驚いた。

そのときは形稽古同様、全く闘争する気がなく、淡々と自分の状態だけに専念していた。するとあれほど意欲的に攻防していたときには発生しなかった現象が発生したのだ。

なぜだろう。

遥か遠い世界のようで、実は睫毛の先にあるのかもしれない。

おそらくそれは、剣のなかだけではなく、日常のくらしなのか、目の前のいろんな事象もそうなのではないか。