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「ほんとうの日本文化は、日本全土の文化が参加して築き上げることが大切である。(中略)
地方の時代がほんとうに要求されるなら、まず中央文化の要求する地方文化の「型」に媚びないことである。
現実の「地方」を踏まえ、現実の地方の心をみつめて、日本文化に参加する気概を持つべきではないか。中央文化の求める地方文化をそのままに受け入れて、その注文に応じるだけではほんとうの地方文化は育たない。」
淡谷悠蔵「中央志向型・地方志向型」(『北斗』第8号、1981年)
「地方」を「人」に置き換えても面白い。
情報社会となった現代は、30年前の淡谷の時代よりさらに平準化が加速している。
東京から来た方が、フランチャイズ店がならび、賑わう津軽のショッピングモールを見て
「地方はくいものにされているのかなあ」と嘆息されたとき、ハッと思った。
しかし首都圏でも同じようなモールが広がっていて、どこも同じだなと感じた。
「日本中どこも同じ光景」が進めば、われわれひとりひとりは、いまこの自分ではない、遠いモノサシに、ひたすら合わせる努力が課せられるから大変だ。
すると個々は疲弊し、全体も片寄った文明となり、閉塞していくから困るだろうな。
だからといって地方が孤立するのではなく、相手につながり同調しながらも、己の主体性も持ち続けるということが必要だ。
それは武の稽古で学ぶことだ。武は、剣は、この小さな我が身を通じて、大きな世界への向き合い方を学ぶいい方法ではないか。
もうひとつ最近気づいたことがある。首都圏と津軽の稽古事情だ。
各種武道・武術が盛んな首都圏では、たくさんの団体が活動している。
様々なことが学べ、互いに切磋琢磨できる素晴らしい環境といえるが、異種同士活発に交流する団体がある一方で、それぞれが強固な門派を張るがために交流を忌むケースもある。
それを象徴するかのような光景を東京武道館でみることがあった。
同じ柔道場を半分に分け、数メートル向うでは合気道稽古が、こちらではその理論に反して分派した武道が稽古されている。
普通は互いに気になるだろうに、まるで目に見えない壁があるのか、相手が透明な存在なのか、田舎者の私にとっては、奇妙な光景だった。
タコツボ状態からは新しい発見は生まれにくだろうな。
田舎者にも有利な点がある。
この津軽では、近世の武芸文化が忘れられつつある一方で、明治以降の近現代武道やスポーツの普及もそれほど進んではいない。
それを焦って、ますます中枢にすり寄るのではなく、逆に制度がゆるく、よるべきものがない辺境の地だからこそ、その一方で歴史の遺産も残されているからこそ可能なこと、ほかの地ではできないこと、従来の枠組みにとらわれず新しくやれることがたくさんある。
私はそう確信している。