家伝剣術は、この小さな身ひとつを通じて、広い世界への向き合い方を学んでいけるようだ。体の遣い方が変わるとココロまで軽やかになるから、単純な私だなあ。

まずは、家伝剣術が説く「船上に立つ」「身に連れてはねる」よう、地面をあてにしないこと。

諸流が説くように「面を引かないこと」は、「願立剣術物語」などの「剣先や手先から動かさないこと」「剣を近く身を遠く」にも関わているのではないか。

このような身構えを実験してみると、剣を振っている途中で、相手にわが腕を制止されていても、ラクに突破できる感じが出てくる。

なぜか。おそらく…

これらはいずれも岩木山の岩場や八甲田大岳の急斜面を、小走りで駆け下りたときのあの状態を彷彿とさせる。

登山部にもいた私は、登りは苦手だが、下山が得意で速いといわれる。だって重力に引かれて落ちていくだけだからラクなのだ。

その途中、我が身体が上下左右に分散せず、中央をとっていなければ、たちまち転倒して大怪我となるのだ。コブ斜面のスキーもそうなのではないか。

実感としては、目まぐるしく駆けている途中に、少しでも違うこと、次の足の置き方を考えたり、「コケたら複雑骨折か、怖いっ!」などと目が覚めてはいけない。たちまち「中央」が崩壊し、自ら転倒しそうになる。

家伝剣術のいうように、眼には眼の、手には手の、指には指の、それぞれの役割があり、すべてが連携しているからこそ、一体が成り立っている。そのどれかがサボってもダメなのだ。

中央をとったままの状態で、大きな流れにのって、無我夢中、一心で駆け下りていくことこそが安全だ。不規則に変化する岩場の斜面にも、案外、自分の身体は自動的に反応して対応しているものだ。

家伝「眼を止めず、手を止めず、足を止めず、すなわち心地不動へ」

流れが途切れないと、いつのまにか我を超えた膨大な威力が発生し、途中でぶつかった相手は、身体ごと跳ね飛ばされ、大変な事故となりかねない。

実際に自分で止まる方が大変だった。全身を一気にスプリングのようにして減速して強引に止まる方法では、全身各部の筋肉への負担が大きく、翌日は体がきしむ。一方、周囲の草木を両手でわし掴みにして減速していく方法は、両腕が擦り傷だらけになった。(だからこんな危ない下山方法はやめましょう)

往時の武士達のなかには、そのような状態を、平地でも、ふだんの剣術でもできた人がいたのではないか。

すなわち、本人は軽快に動いているが、周囲からすれば少しでも接触したら無事ではいられないコマのような存在。

そうなれば一対一だけではなく、対多人数の状況をくぐりぬける技法が現実のものとなろう。

このような運動、稽古で得られる心身の状態は、あたかもいままでの固い拘束から急に心身が解き放たれ、あたかも鳥が翼を一気に広げて自在さを得たような喜びが湧き出てくる。反面、相手には重さの載った技が通じていくことがあるから不思議だ。

この感覚は部活時代、ひたすら我慢と根性を心身に刷り込んでいき、疲労で鉛のように重く固くなっていく練習で、稽古を休めば元に戻ってしまうような方法とは全く違う。

いまでも各所で推奨されているが、根性がなく、違う道を見つけてしまった私は、もうそれはやりたくないなあ。