先日、奇妙な体験があった。

一般に、小太刀で大太刀に向かえば、いいように打たれるものだ。

各古流や日本剣道形にも同様の技法があるが、試しに木刀を袋竹刀に変えて自由に打ち合ってみればいい。その難しさをすぐに実感するだろう。

いままで大太刀同士では勝てていた相手でさえ、小太刀に変えたとたん、相手が強敵に急変する。スポーツチャンバラ経験者のなかには「それは不可能な対戦である」とまで言い切っていた方もいた。

ところが往時の武士たちが向き合っていた危機は、互いに条件を揃えた競技ではなかったから、敵はこちらの不利な状況を選んで襲ってくることが多かった。だから「今日は小太刀しかないから戦いません」とは言えなかった。いかに不利でも対応を工夫するしかなかった。

家伝剣術の小太刀「性妙剣」を手掛かりにそれを探究している。

フットワークとフェイントでなんとかスキを打ち込むのは、あたかもジャンケンのような不確かさで、若さとともに失われる技法だ。

家伝の形が示すように、我が主体ではなく、小太刀を主体として、口伝のように、あたかも暗闇で灯明を捧げていくかのように歩んでいく、開き直って打たれてもよいと。するとときに、あれほど猛打を浴びていた鉄壁の間合いを、スルリと通過していっている自分に気づくことがある。

そのあとも、そのまま間合いを詰めようとすると、そのまま密着していけることもあれば、再び大太刀の猛攻撃を浴びることもあり、まだまだ不足を感じていた。

だが最近の打ち合い稽古のなかで、小太刀を捧げて歩んでいくなか、相手が打ち込んできたが、生理的反射で我が片手(小太刀)が、勝手にそれを払っていた場面が何度かあり、意識的に防御していたときとは異質な何かを感じた。

術理や技法は必要だが、そればかりでは現実を生きていけない。すなわち、いかにより良い身体の状態を発見しても、常にそのままを保とうと、己を縛ってしまうのも居着きなのではないか。

例えば、熱いヤカンに触れて「熱いっ」と自動的に心身が反応することを封じてしまうのではなく、そのままゆだねることこそが最適の対応である状況もある。