林崎新夢想流居合の記録映像撮影。

K氏、無刀氏、外崎源人氏、下田雄次氏らのご協力のもと、向身七本、右身七本、左身七本まで撮影が完了した。

今後、編集作業等を経て、参考資料として公開へと進めていきたい。

そして朝方、家伝剣術の刀の素振りをしていたら、そのなかで偶然、スポーツなどで相手のガードを左右へすり抜けていく技を可能にする気づきがあった。いままでかなり高度で不思議な技でできそうもなかったが、やってみれば案外シンプルな術理のような気がする。無刀氏相手に検証してもらい、やはり少し効能がある。今後さらに工夫すると面白いことがありそうだ。

そして外崎氏が、袋竹刀「源悟刀」のさらなる新型を開発した。

前回同様、刀のごとく反りがあり、柄部も楕円型の柄をしているのに、素肌のまま自由に打ち合うことができるのはもちろんだが、今回はなんと真剣と同じくらいの重さがあるのだ。

重さがあるから、それに引かれるように動く剣技ができるし、竹刀剣道やスポーツチャンバラのような手首のスナップだけで振り回すような所作が自ずと封じられる。

しかし重さがあり、鍔競り合いで体重をかけても折れないのに、打たれてもケガしないことが、誠に不思議である。

よって木刀稽古と竹刀稽古の両方の特性をそなえた稽古ができるのだ。

例えば、家伝剣術切組(組太刀)稽古、大太刀「表」で、互いに切り結びながらも、仕太刀がそのまま打太刀の構えごと斬り割っていく稽古が、素肌のままで互いにケガなく、遠慮なくできるのである。(まあ、小手だけはつけた方がいいかもしれない)

その遠慮ない稽古のお蔭で、私も気づきがあった。

前述の「表」二本目の形が要求していることができるようになってきた。

以前は「台車で運んでいる重い荷物をそのまま預ける」などと説明していても、なかなか相手を斬りつぶせずにいた。

よって最近の木刀稽古では、危険を避けるためにも、相手に我が木刀を受け止めさせずに、そのまま、スルリと摺り斬りるように抜けていくような遣い方をしていた。

今日は、新型袋竹刀のため、遠慮なくできる。そのためか、ようやくできるようになってきたか。ただスルスルと歩み寄って打ち込んだだけなのに、同時に切り結んだ打太刀が、その構えだけではなく、体ごと後方へ崩され、ときに大きく崩されてつんのめり、後方受け身をとらざるをえない場合もあった。

ホントかなと攻守を交替してみたら、受けた私自身も後方へのけぞらされて、他の方々の武具を踏みつけてしまうところだった。

なぜ当流は連打が少ないのか。軽い打ちならば互いに連打の応酬がとまらず、そのたびに危険にさらされる。しかい一打で相手の姿勢が崩せれば、その分、相手は反撃の余地を奪われて、我だけが連打できたり多人数にも対応できよう。

今後、この袋竹刀で、木刀による組太刀とも、竹刀稽古ともつかない、いろんな稽古が実験できそうで楽しみである。

そのなかで浮かんできたのが、胸を反らした剣道の「正しい姿勢」の功罪である。

当会のM氏は剣道有段者で直心影流剣術の目録の腕前である。かつてその直心影流の防具付き竹刀稽古では、打突のあまりの威力に、防具を着ていても昏倒する者が多く、幕末の修行者達のなかには、衝撃に慣れるため、ときおり柱に頭を打ち付けることもしていたと聞いたことがある。

おそらくその威力は、単なる腕力だけではなく、現代の竹刀稽古とはかなり異なる身体運用があったため、自ずと大きな威力が発生していたのではないか。おそらくその姿勢は直立ではなく、地面との反発力を打消し、剣に重さを乗せていけるような、ふわりと立った丸く柔らかい自然体だったろう。

さて、以下は私の勝手な推論である。

近代以降、竹刀稽古を全国普及する際、打突の威力を緩和して安全性を高めるための工夫のひとつに、胸を張った「正しい姿勢」の推奨があったのではないか。

(その「正しい姿勢」のまま、床を強く踏んで打ち込めば、地面との反発力で相手に伝わる衝撃が減殺されてしまうのだ。その逆をやれば大変な威力が発生する。面を打たれるのが嫌になるだろう。)

そして剣道の形稽古といえば、日本剣道形がある。

幼い頃から剣道稽古のなかで何度も稽古し、その稽古は好きだったが、実際に使えるかどうかは全くわからず、単なる昇段審査用か、儀礼的な存在だった。

どうしてこのような不可思議な所作をするのか。どう考えても竹刀稽古では間に合わない、通用しない動きが多いのはなぜか。

こんな疑問を感じるのは愚かな私ばかりではないか。全国誌などで有名師範の解説をいろいろ拝読したが、やはり納得できなかった。

どうやら日本剣道形の稽古とは、手順と外形を順守することが最優先であり、その理由としては精神論や観念論が多く、ときに強引に竹刀稽古の経験に重ねた解説があるぐらいだったからだ。

しかし武道ならば、この日本剣道形を使って実際に攻防することを想定した稽古を求めていくことが、どうしても必要ではないか。

そうなれば、現在の一般的な稽古方法、すなわち、自ら試行錯誤して工夫することをせずに、ただひたすら手順と外形を順守するだけでは、日本剣道形に内包された初発の術理が蘇ることは難しいのではないか。

日本剣道形を稽古したからといって「刀法が身に付く」わけではない。残念ながら、高段者の方でさえ、竹刀稽古のスナップ打ちの延長のまま、木刀を振って日本剣道形を打っている方が決して少なくはない。

その操法では実際に対象物を斬れない。剣の特性、理法を活かした技法とはいえず、しかも竹刀稽古とも少々異なるという、不可思議な動きをしている気がしてならない。そうなると稽古する意義さえわからなくなってくる。

日本剣道形が実際に使える術理となるにはどうすればいいか。

従来のような盲目的な繰り返しでは、ますます形骸化が加速するだろう。私はそんな稽古ならば耐えられない。

幸運にも現代は情報化社会のため、様々な古伝の術理の史料や研究を実践を通して探究し、実際に生きた技法として再生させている若い方々がたくさんいる。

そのような人々にいったん委ねて研究してもらうことも必要ではないか。

生きた術理があり、実際に使える日本剣道形になれば、上から強制しなくとも、人々は自ら深い関心と意欲を持って、進んで稽古するようになるだろう。

わたしにとっての家伝剣術のように。