武技には確かに「力」が必要だ。

手首のスナップ連打を繰り返す竹刀剣道およびスポーツチャンバラ式を脱して、一打目で相手の構えごと、体勢を切り崩していく剣術技法を稽古するとそう感じる。

しかし生の力は、あたかも陽炎のような存在だ。加齢やコンディション、相手との比較ですぐに失われていく。

では力を用いずに力を発生させること、家伝「自然力」を工夫しなければならない。

その点において、素手の体術よりも剣術稽古の方に、優れたヒントが含まれている気がしてならない。

なぜならば、何発かくらってもガマンして次の一発で…が成立しないからだ。

生身の肉体で鋼の刃に勝つことができようか。圧倒的な我が非力さが提示される。

そして刀そのもののが、一点で力を止めることを許さない構造をしている。

剣を遣う稽古だからこそ、筋肉力だけでは通じないことが、体感を通じて学べる。

緻密な理がないと、とうてい乗り越えていけないことが明らかにわかる。

それがわからないと、どこまでも我力と体力で通そうとしてしまうことになる。
だが、いくら剣技でも、安全な竹刀稽古だと、どこまでも体力が通じると勘違いしてしまう恐れがある。

「真剣は相討ちだ」と思い込んでいる方が少なくないが、それこそ、いくら当たっても無事だから、体力の続く限り攻防を繰り返せる竹刀稽古特有の技術観だ。
それでは生命をかけることができる技法とはなりえない。

凄惨な闘争のなかで、相討ちを乗り越える理を発見した古人達がいたからこそ、習うべき技法「剣術」になったのではないか。

ことに私は幼いころ、剣道の経験だけでは、たとえ部活で一生懸命稽古し、大会で優勝しても、実際の危険に遭遇した場合、本当に有効なのかどうか、不安でしょうがなかった。だからといって古流が使えるとも思えなかった。

しかし、最近ようやく剣術の稽古が少しずつ進み、これならば危機からなんとか身を守ることができそうな安心感が生まれてきて、本当に武士達が使っていたことを確信できるようになり、ホッとしている。

その理由は、いくら剣道が「相手を攻めておさえてから打つ」といいながらも、攻撃を重視するあまり、その動きが、我が身もさらしたまま飛び込んでいくような技法が多く、相手の余勢や後打ちをくらいやすいのに対して、古流剣術技法は、常に攻防一致を含んだ斬り、所作から成り立っていることに気づけたからだ。

すなわち、剣道が、攻めの槍ばかりだとすると、古流剣術は、あたかも盾と矛を両立させながら動いている手堅さがある。

その背景には、竹刀ならば何度打たれても無事であるため、捨てきった思い切りの良さや姿勢の美醜等を工夫する余裕ができるが、真剣の場合ならば、少しでも触れられると無事ではいられないという切実さが背景にあろう。

実に当たり前のことであり、諸流ではみんなやっていたことなのだが、近代は、その当たり前だったことが競技化のなかで忘却されてしまい、古流演武を見ても、何をやっているのかよくわからない現代武道人が増えてしまったのではないか。

それでも「いまどき真剣は使わないから竹刀でいいではないか」というならば、まさにそれは競技であり、かつ、その稽古からは「剣」の標題を取り下げなければならないことになろう。