昨日は朝9時から18時まで、いろんな稽古ができた。

しかし稽古は、長時間やればいいものではなく、やはり質であり、どれくらい己自身を見つめるかであるとと思った。その点において、まだまだ不足を痛感し、一時間があっという間に流れて消えていくなかで、もっともっと充実した稽古をしたいと思った。

そのなかで何名かの方に実験にお付き合いいただいて実験したが「カイナを遣う」ことは、家伝剣術の剣の振りや小太刀のさばき、正面の相手の追捕を左右にかわしてすり抜けていくことなど

身体の変化と推進力だけではなく、今日庭でやった真剣試し斬りの斬撃力の発生にも有効なようだ。

特に、正面から立ちふさがってくる相手を左右にかわしてすり抜けていくことは、10代、20代の頃、短距離走やフットワークが得意だった頃でも困難だったことを思えば、これほど簡単な術理ならば、ラグビー部だった当時に気づいていればよかったと思った。

もしかすると、我が正中線が複数発生する、いや流動的になるため、多敵の位にも通じる予感があり、今度、稽古で試してみたい。

その際、相手の反応を読んで、フェイントと使ったりして動いていては間に合わないようだ。すぐに捕まる。逆に、あくまで己自身のことを迷わずに行うほど、相手は追捕しにくくなるようだ。しかし、変化が少しでも体内でよどんだときは、あっけなく捕まってしまった。

さらに、素手でナイフから身を守る方法にも応用できるかと実験したが、まだまだダメだった。さらに工夫を重ねたい。

さて、最近また家伝剣術の奥伝と再会できそうだ。

幕末から近代初頭にかけての家伝剣術高弟の記録が、実家近所に埋め込まれていたことがわかったのだ。

わたしの祖父は幼少期から、旧弘前藩剣術指南番だった曽々祖父らから剣を学んだが、青年期になると、その高弟小田桐友平師範から「おさらい」をしたという。

彼がいなければ、家伝剣術の現在はなかった。深く感謝申し上げます。

小田桐師範は、我が家の剣術印可だけではなく、日置流竹林派射術初巻、林崎新夢想流居合非返伝、宝蔵院流十文字槍術目録の腕前であった。

現在それらのうち、弓術や槍術の伝承は、この土地から失われてしまったことは返す返すも残念だ。代わりに、明治以降の新興文化が、あたかも「古来からの伝統」のようにとらえられているから複雑である。

昭和初期に撮影された護国館道場内の集合写真。

そこには、近代剣道の師範たちとともに、旧藩の武芸も修める笹森順造師範、祖父、小田桐師範たちも写っている。

剣術と剣道が同居していた時代に、師範は剣道はやらなかったという。なぜだろう。

おそらく、先祖代々の豊かな諸流の武芸伝承を修めている身にとっては、中央からきた新しいムーブメント、近代剣道には、特に関心がわかなかったのではないか。

すなわち、その頃の津軽には、この地固有の豊かな武の文化が生きていたのだ。

当時は八戸市も同様だった。講習会へ来た中央の高名師範に対し「その技法は本来の武技ではなく、一般普及用に変えたのではないですか」と一喝し、謝罪させたという地元の古流師範がおられたそうな。

なんと、各地に豊かな文化が生きていた時代だったのか。

各ジャンルが全国式へ平準化し、順位づけされ、交換可能な存在となってしまった現代では、ありえない話だろう。

だがまもなく、旧藩以来の各武芸流派は衰退していった。それを嘆いた小田桐師範は、あちこちにモニュメントを残していった。

百年後のいま、苔むしたそれらのメッセージから、新しい気づきを得ている者がいることを、あの世の小田桐師範は知っているだろうか。