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古剣稽古日誌

古剣稽古日誌

家伝剣術

私の稽古はいろんな道具が多すぎるなあ。

もとはといえば、修武堂という稽古会そのものが、いろいろと研究稽古をする会のため、

本日、一体、どのような稽古になるかわからないため、様々な武具を用意する必要があるのだ。

既存のワク組みにない場合は、いろんな稽古道具や武具を開発して試してきた。

かつ、対人稽古だから、お相手をしてくれる仲間に貸して使ってもらうために、武具は一組以上が必要だ。よって、まるで弁慶か引越しのように、大小の武具をたくさん背負って集まってくる。かなりの重さで、それだけで稽古になっているような不便さだ。

だが本当は、できればシンプルに稽古したい。

この身ひとつ、剣ひとつだけあればいい、という気持ちがますます強くなってきた。

もしかすると、稽古そのもののあり方についても、有限な人生のなかで、なんでもやるのではなく、なにか指向性、ひとつの方向性がまとまってきているのかもしれない。

ともかく、この稽古から養成される、いや気づいていく強さは、戦場で刀槍を振るう強さではない。

そんな強さは、現代において無効である。

この日常を、日々を豊かに楽しみながら生きていく強さだ。

でもまだまだ、先人たちの蓄積どころか、己自身のものだけでも、気づけていない、引き出せていないものがたくさんある気がする。いまの眼差しそのものを転換したい。

 

さて。ここ数年、抜刀(試し斬り)に使っている愛刀。

 

九州の産。反りが高く、少々重いため、まだまだ身体と一致している感覚がなかったが、今日、初めて、己の肉体とつながれた感覚があり、ホッと安堵した。

 

剣道や剣術は、現代の護身術において無効であると思っていた。

 

古流の月刊誌の編集者でさえ「(古流は)古き良き伝統を求めるロマン」ではないかと書いている。

 

しかし、まさしく剣が手の延長となれば、たとえ無手においても、そのまま、剣技の理合を応用して対応できるのは本当ではないか。

 

まあ、本来この技は、競技や試合のために生まれたのではなく、現実の危機を乗り越え生き延びるために編み出され、実際にそのような場で使われてきた実績と経験智が蓄積されているのだ。 

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