「評価される技を」という武道雑誌の表題を見て少々驚き、寂しさを感じた。

武とはそのようなものだったかな。武の性質が変化しているのではないか。

「評価されるために」という、フィギアスケートや体操競技と近似する価値観は、長い武の歴史上、最近の新しいものではないか。

おそらく、一世紀前の先達達、生きるために稽古していた時代に言えば、理解できない人が多かったろう。「使えるかどうかだ」と。

すなわち武とは、他者の評価基準に沿うように振る舞うことではなく、目前の困難を生きのびるための技法だったからだ。

例えば、定型を崩さずに、ひたすら順守する行為自体が、この世界に平穏をもたらす祈りや呪術として尊ばれるのが神事や儀礼だとすれば、

その平穏が、予期せぬ事態で破られたとき、いやその災いを察知したとき、もとの平穏へ戻すための技法、智慧として、武が生まれてきたのではないか。

だから武は、非日常ばかりではなく、ふだんの暮らしそのものともつながっている。

よって「評価されるため」でもないし、わざわざ争いを求め、戦う場をこしらえてでも参加していく「腕比べ」とも、本質的に異なる。それがいま流行りの「サムライ」ではなかったろう。

そのことは、私もふくめて現代人が、ときどきかん違いしてしまうことであり、そのことで武の稽古や学び自体を、狭めてしまわないようにしたい。