いままでずっと「古流であろうとも、現代武道相手に力を発揮できねば」と焦ってきた。

だからこそ先日、剣道の先生の誹りに腹を立てた。

しかし、我が家伝剣術の本来の目的はそれだけなのか。

武だから、確かに実力は必要不可欠だ。

だがその武の「実力」「チカラ」とは一体どのようなものなのか。

例えば、刀の代用品である竹刀と、それを使う競技ルールに耳を澄ませて磨いた技。

本物の刀剣と、それを使って過酷な現実を生き抜くことに耳を澄ませて磨いた技。

両者ははたして同じ存在、性質になるだろうか。比べることができようか。

優劣はなく、それぞれの向き不向き、世界観はかなり違うはずだ。

家伝剣術は後者にあたる。

歴代師範たちは、試合だけではなく、実際の戦乱や命のやりとりを何度も通過してきた。

小さな門派だが、誰かの指令通りに動くのではなく、自ら直接に世界に対峙するなかで、代々培ってきた歴史と文化の裏打ちがある。

あらゆるジャンルで全国組織化と平準化が進展している現代社会において、そのような自立した文化はかなり珍しい存在であり、もう少し胸を張っていいはずだ。

ただ現代は、実際に刀剣を振るう時代ではない。

だから、己の腕自慢で終始するのではなく、それを人々と共有することで、自他ともに生きぬくための文化、命の哲学として高めていくべきではないか。

そのとき、同じく、生死に係わる哲学分野でも、一代限りの花火のように忘却されていく天才教祖がいる一方で対照的に、何世代も人々の心を暖めていくような存在となる人がいるのはなぜなのか。