本州最北端、大間町奥戸の神社祭礼へ。

民俗調査へ行き、三日間、朝から夜遅くまで山車運行を記録撮影。

左手にビデオカメラ、右手に一眼レフといった二刀流のまま、運行を徒歩で追跡。

夜10時過ぎ、行列から離れて海辺を歩いていると建造中の大間原発が見えた。ふと思った。

生活とは、稽古とは「正しいこと」ばかり起こるものではない。

そこで発生する現象ひとつひとつに「これは何を私に気づかせようとしているのだろう」と耳を澄ますことなく、

「これは正しい基本ではない」と、つぎつぎ目をつむっていけば、

やがてそれは自分のワク内でしか通用しない虚構となるだろう。

ともすれば、自信に満ちた人、武道高段者ほど陥りやすいピットホールかもしれない。

つま先立った両足を平行に揃え、常に右足だけ一歩前に出す、現在の剣道の基本の足遣い。少年の頃、何度も足裏の皮をすりむき、爪をはぎ、血を流したものだが…。

その基本の足遣いは、決して古来からの「伝統」ではなく、中山博道師範らの批判を受けながらも、大正期以降「正しい基本」として定着していったことはすでに、剣道史研究が明らかにしていることである。

いまではそれが「古来からの不変の伝統」であるかのように考えられ、信仰され、そのために無理をして足を故障する人も少なくない。

「撞木足では怪我をする」という俗説も、実は撞木足特有の遣い方がわからずに、つま立って飛び込む技法の延長で撞木足を使うからであろう。

古流の撞木足や八の字、歩み足などの多彩な足遣いが割愛されて、右足前の平行つま先立ちへと単一化されていった背景には、

近代以降の剣道が、平らな板の上で、ひとりの敵だけを相手に、互いに同じ長さの軽い竹刀を使い、安全な防具に身を包んで打突の速さを競い、直線上で正面衝突を繰り返す形態(現実にこれを素面でやったら両者ともに無事ではいられない)へ特化していったことが大きいだろう。

もしも起伏のある地面で、重くてそれぞれ間合いが異なる大小の刀や槍・薙刀を用い、しかも素面素小手で攻防しあう場合。そして柔術まで入りまじり、対多敵までありえれば、もとの古流剣術のように、撞木足や八の字、歩み足など多様な技法を使わざるをえなくなる。実験すればすぐにわかる。

実際にそのような多彩な足遣いは、日本だけではなく、中国や東アジア各地の伝統武術に共通する技法である。なぜならばいずれの武も試合コートだけではなく、多様な実生活で使われていたからだ。

むしろ現代剣道の足遣いの方が新しく、場所を限定する近代スポーツに親和性が高いもので、非アジア的な技法であり、そこから「伝統」をくみ出すことは難しいのではないか。

家伝剣術も多彩な足遣いである。

特に小太刀の稽古で、口伝の「八字二刀」が、足遣いや構えの外形だけではなく、身体内部にまであるのではないか。そして位取り、歩法などに連動していることに気がつけてきた。

(さらに私は岩手で3・11東日本大震災被災したとき、一日約40キロ歩いたが、家伝剣術の足遣いが便利だった。)

ことに多敵の位にまでつながっていくことであろうかと感じられてきている。

小学生の頃、竹刀剣道でたったひとりで、3、4人相手に地稽古をよくやらされたとき、相手同士ともに重なって一気にかかってこられないように必死で駆け回った。当たり前だが「正しい足遣い」など通用しなかった。

今回はそのような体力まかせではなく、体の遣い方そのものベースを変える稽古といえる。うまく説明できないが「中心を攻めて!」ばかりでは一対一を越えることはなく、中心、正中線を固定しないことと表現できようか。体の固い私でも、これほど意外な動線が描けるのかと。

近世中期の高祖父は、「剣術は一人の敵しか相手にできないだろう」という誹りに対し、「そうではない。多敵も応じられる。技で見せよう」といって、自分のまわりを7、8名で囲ませて、打ち込んでくるのを全く触れずに何度も抜け出して見せたという。

そんなことできるはずがない、家伝にもその方法は示されていない。

と疑っていたが、それにつながるような、なにかしらの多敵へのヒントにならないかなあと。