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古剣稽古日誌

古剣稽古日誌

たとえ己とは異なる者でも、自他共に尊厳を払うのが侍だ。武だ。

「あいつじゃ私の稽古にならない」と相手を選ぶこと。

「いろんな人に教わったが、誰もたいしたことがなかったよ」と自慢すること。

「俺が教えてやっているのだ」と、ひたすら威張りいじめ抜くこと。

どれも人としてあまりに品性がない。なぜか。

これらを「稽古」ではなく、人との付き合いに置き換えるとその愚かさが一目瞭然だ。

「あいつじゃ私の友人になれない」「いろんな人に出会ったが…」

他人をランク付けし、道具化することは、人として卑しいだけではなく、武も上達しない。なぜか。

外界を見限ることは、豊かな可能性を見失って己を狭くすること。

そのことで外界の変化や危険に気づけなくなること、

そして何より、周囲からの無用な憎しみの連鎖を招く。

すると上達しないばかりではなく、命がいくつあっても足らなくなってくる。

武とは、家伝剣術は、おそらく腕試しやチャンピオンシップではない。

暮らしのなかで危険をそのまま野放しにせず、その芽を察知して摘み取ること。

災厄のなかで、平和を回復させるための生きる技法だったのではないか。

達人とはおそらく、生まれつきの才能や有名師範に恵まれることばかりではなく、

眼前のすべてを敏感に感知し、リスペクトしながら、多くを学びとれる人ではないか。

有段者との稽古ばかりではなく、日々の少年指導だけで八段をとられた剣道師範がいる。敬服する。

幼い子供や初心者だろうと、そのひとつしかない心身を総動員して、私の拙い稽古、ましてや時代遅れの剣術にお相手してくれる方は、すべて有り難き師だ。精神論ではない。実際に稽古してみればわかる。

人という存在は、誰しも不可思議な存在であり、それぞれに心身の特徴があり、なかなか手強いところ、精妙な動きをしている。

そのようなお相手の個性が、私だけでは知りえない未知に気づかせてくれる。

目の前のこのひとは、いまこの瞬間、このご縁でしか気づきえない新しい世界を教えてくれる得難き神仏なのかもしれない。

だから稽古は、まず礼から始まって礼で終わりたい。

日々もそのように暮らしたいものだ。

そうなれば、私はもっとうまくなれるし、与えられた己の幸せに気づけるだろうな。

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