先日、鳥井野獅子踊の祭礼にお邪魔した。

同じ前近代の身体技法でも、獅子踊は、近現代武道のように、近代競技スポーツ論理で整理されたり改変されたことは少ないから、古い要素が残っているのではないか。

その教え方のなかで「腕を差し伸べれば自然と脚もついてくるだろう」という言い方があるそうだ。

やはりそうか。思わず膝を打つ。最近、改めて気づいた家伝剣術稽古の工夫と一致する。古い身体技法の共通要素ではないかな。

定例稽古。

まず、竹刀と剣道防具で、小学生の息子に、剣道地稽古の基礎を教える。

最近、道場では基本素振りを習っているようだが、仲間の小学2年生から「四挙動などの大きな素振りが、打ち合いにつながるのかどうかわからない」という、素朴だが鋭い質問が出て、先生方が苦笑していたという。

まあ実際に直結することは少ないのではないか。

たとえば戦前、八戸の某古流師範は、東京からやってきた歴史的高名師範が、竹刀を自分の尻や背中につくまで振りかぶる技法を教える光景を見て「それは真剣では斬れない技法だ。本当にあなたは先師からそのように習ったのか」と問い詰めたところ「実はこれは学生向けの運動として開発した」と告白されたという。

さらに剣道では、「基本」の外形についてはかなり厳しく躾けるが、自由な地稽古に入ると、こんどはきちんと術理は教えずに、ひたすらしごいて自分で体得せよとやる場合が多いから、上手い人は上手いし、下手は下手のまま一生終わることが多い。

後進に、先達の知恵を手渡さなくては、文明全体は進まない。

よって息子との地稽古では、いま私がわかっている術理は、もったいぶらず、なるべくその場で具体的に教えてしまう。

竹刀競技特有の技法ばかりに心身を費やして終わってしまうのではなく、さらにその先、未解明の理合も探求できるよう。

加えて、防具と竹刀のまま、薙刀や槍相手の打ち合い稽古を体験させる。ひとつに固まらず多面的な稽古を。

その後、私は脛当ても付けて、学生や一般の方に薙刀を持っていただき、どこでも好きなように突き、叩き、なぎってもらいながら、竹刀で応じていく工夫をした。

やはり打たれるなかでわかることがある。昨晩と今朝気づいた、身構えと歩法がある程度、使えることが見えてきた。

防具を脱いで、素面素小手に木刀で、家伝剣術大太刀の組太刀稽古。木刀で危ないところは袋竹刀に持ち替えて試す。

特に相手の構え、手元ごと切り崩していく技法は、互いの変化でどこに木刀が入っていくかわからず、思わぬ怪我しないよう留意が必要だ。その繊細な感覚が真剣の扱いにもつながっていくのかもしれない。これは防具に身を包んだ安心感とは違う。

そして無刀氏を先達にみんなで本覚克己流和(柔術)。形ばかりではない。みなさん研究心旺盛だから、形通りには投げられないよう頑張るのをなんとかしようと研究したり、形を素材にしていつの間にかナイフ取りの稽古になっているから面白い。

林崎新夢想流居合「外之物」も稽古。さらに両脚を封じられる稽古だ。それだけに剣に体重をのせられる。