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先日、剣道師範が指摘された「剣術は形が固定されてしまっているが、剣道は自由に動くから「実戦」なのだ」というご教示について、再考している。
批判に対して怒るのは簡単だ。
だがおそらく、この出来事自体が、私に何かを気づかせようとしているのではないか。
彼の言葉は、ひとりの見解ではなく、実は、近代以降の修行者たちの代表意見でもあろう。
5歳から剣術を、6歳から竹刀剣道をやらされてきた私にとって、形と竹刀稽古とはどんなつながりがあるのかという課題は、何度も何度も眼前に現れては、悩んできた。
「なぜ私には、不可思議な古い形が与えられたのか」
これは、私の小さな係役割だろう。
「形など捨ててやらなくてよい、己の稽古こそ一番だ」と、信じて疑わない方には見えないものを見出せということか。
もとい。
「形は実用性がない」という批判は、近代以降、日本各地で古流剣術が衰退し、雪崩をうって近代剣道へ交替していった大きな原因だろう。
生きた形を稽古する智恵が、方法が、失われたのだろう。
しかし、形を否定したはずの現代武道も、なぜか形を捨てきれないようだ。
ここ30年間、「日本剣道形や古流を剣道に活かそう」という言葉が定期的に出てくる。
しかし、まだ答えは見出されていない。
形と竹刀稽古があまりに違うから、中間的な存在「木刀による剣道基本技稽古法」が開発された。
だがそれは「形とはどんな存在で、どのような機能を帯びているのか」を、トコトンつきつめたうえではなく、竹刀の技法をそのままに、ただ木刀でなぞるパターンを増やしただけで、それが実際の打ち合いとつながるかどうかは、やはりわからないのではないだろうか。
いや、竹刀の基本素振りでさえ、試合や地稽古で使う技と異なる。
「四挙動は、これほど大きく動きますが、実際の打ち合いで使えるの?」という小学生の素朴な質問に、高段者が苦笑せざるをえない。
なぜ我々は、形を使えないのか。
おそらくそれは形を、即物的な戦法か、手順を守るだけの様式美、精神論のシンボルとして認識しているからではないか。
平安期までの史料に現れる剣技の多くは、「手」つまり、個々の具体的な刀の振り方、手順だったと考えられている。
手順やマニュアルは、どんどん増えていくものだが、必ず隙間が生まれるものでもある。
また増やす、まだ足りない、また増やす…。
煩雑になって覚えられなくなり、手順を守ることが優先事項となり自縄自縛になる。
ところが、戦国末期になると、個々のコツや手順の底を共通して流れるものに気付いた人々がいた。
無形の理を発見し、体系を提示した流祖達の出現は、当時の人々にとって、目から何度もウロコが落ちるほどの、大いなるパラダイムシフトだったはずだ。
その手がかりがここに残されている。
古い剣技ほど素朴である。
たとえば、家伝剣術が残した形は、あまりに素朴な動きなので、即効性のある戦術だとは思えない。
(といいながら、竹刀剣道の地稽古で思わず使っていたことがあるが)
しかも、先人たちが書き記したその解説も、あまりに抽象的だ。
だからこそ私は、形の手順と外形に頼れない。具体的戦法としては考えられない。
よって、形を使うなかで発生する様々な現象や、己自身の内面に耳を澄ますしかない。
いまわかっていることは、形には固定された姿はない、ということだ。
おそらく形とは、作為的にそうなるように努めるものではなく、
我は半覚醒状態のまま、それを彼我の関係性のなかに投じたとき「自ずとそうなる」というものだったのではないか。
人によって出現する外形は様々だろう。まるで荒波を泳ぐ姿が千差万別であるように。
だが、内観としては変わらないから、そこから、無形の原理につながるものを学びとり「この現象はなんだろう」と思索を深めていける。
すると、そこで体得したものは、いろんな変化を乗り越えていける。
自転車の乗り方に正解がないように。
このような繊細な学びは、最初から「自由にかかってこい」ではわかりにくい。
目先の勝敗、損得勘定をひとまずおいておき、安心して稽古できるのが形の有り難さだ。
実際に私は、形のなかから思いもよらない動き方に気づくことが多い。こんなことを、こんなにラクにスムーズにできる方法があったのかと。
その後で、気付いたことを対人稽古でいろいろ試し、ひとりよがりや錯誤ではなかったか、検証していく。
これらの気づきは、負けん気にまかせて、毎日、地稽古を繰り返してヘトヘトだった剣道部時代には、全く想像することもなかった動きである。
(おそらくその体力稽古しかないと思っていたら、いまごろ、もっと心身が疲弊し、あきらめることが多かっただろう。)
高橋竹山の三味線の修業話も同じだ。その場かぎりではなく、丹念に稽古していかないと技は質的に変化しない。
重要なキーに気づけば、我々はどんな形を稽古しても、己の心身を深めていけるのではないか。
だたし現代の多くの武道・武術では、そのような稽古が許される場は少数であり、そのような形は、演武の場でも全く評価を得ないだろう。
誰もやらなくなった稽古だ。小さな田舎流儀であるからこそ、わたしは自由に工夫できる。
生涯かけて堪能していくぞ。