実家で父母の庭仕事の手伝い。

数年前、甲野善紀先生がおいでになられたとき「植物園のようですね」とお褒めいただいた。

本当によくまあ、桜、梅、柿、栗、無花果、椿などの小高い木々が、あちこち枝を茂らせており、その下にまた低い低木や草木が生い茂る小さな森のようで、小さな畑まで作っている。虫も多く、大きな蜘蛛があちこちに巣を張っている。

毎年ここから切り出した薪は、実家の風呂焚きに使っている。

今日もその薪割り仕事手伝い。

大変な重労働だが、生きていることを実感でき、デスクワークより性に合っている。

そして何より、薪割りは実に、剣術の刀法、試し斬りのいい稽古になるのだ。(そう思えば楽しくなる)

薪割り台にした太い株のうえに、木を置いて、その木の目と中心をとらえたら、斧を振り下ろす。

やはり最近の工夫している刀法は有効だ。

体幹と剣のつながりを保ったまま斬ること、両脚は踏みしめないこと、をやると、身体の負担が少ないのに重い斬撃が発生し、面白いように木が割れていく。

上段、中段(八相)、巻き打ちなどいろんな構えからの斬りを試してみる。

二本足で直立していることが疑わしくなってくる。低い腰で四肢をよく使う、四つ足歩行にも似た身体へ。

そのうち、鋭く速いくとも動きそのものが粗雑な質の斬りと、ゆっくりでも動き全体の密度が濃く切れ目のない斬りがあることに気づいた。

後者ならば途中で刀法が変化できるかもしれない。

一方で、昔の絵巻などに、合戦で斧で戦う絵や話が出てきて「乱戦で重い斧を遣うのは不利ではないか」と思ってきたが、もしかしたらそうでもない。

単なる腕力まかせではなく、斧と体幹と一体化させて自在に使えれば、これほどの斬撃力で甲冑ごと相手を叩き割っていく恐ろしい武技となったのではないか。

しかし、木々は切り出してから数か月立っているから、なかには手ごわい木もある。

なんど打ち込んでも割れない。もう一度、もう一度…と、上半身裸になって3時間格闘するうちに、全身汗びっしょりとなった。気持ち良い疲れだ。

昼食後、同じ敷地内の実家道場で、T氏と家伝剣術と林崎新夢想流居合の組太刀稽古。

最初は袋竹刀で実際に打ち当てながら工夫。

家伝剣術大太刀「折身」で上段から斬り下ろしてくる相手へ、我はそのまま入り下段から突く所作は、とうてい不可能そうであるが、まっすぐに構えた下段から左右への変化が入れば、実際に可能になることに気づいた。T氏のお蔭だ。

その後、同じ稽古を、甲冑を着て刃引き刀でやる。

もちろん刃引きだから寸止めにしなくてはならないが、ときどき誤ってお相手の体に当たってしまう。

私もT氏の斬り下ろす刃引き刀を右腕に受けたが、動いている途中だったので篠小手が弾いてくれて事なきを得た。

こんなとき、重い刀を素早く振りながらも急停止させる確実な寸止めは、さきほどの薪割りの斧の遣い方にある。

つまり、刀、構えが我が体幹とつながっていることだ。だからこそ、腱鞘炎にならずに、重い刀が急発進、急停止が可能となる。

(本当の戦いでは急停止をさせないのだろうが)