どうやら私には、よくよくパラボラアンテナを張って注視しているようで、実は認識が粗雑な空間があるのではないか。

剣や素手にかかわらず、いろんな稽古で怪我をする箇所の傾向からそう気づいた。

武とは剣とは、わが世界認識の在り様を、拙い点を、身体の実感を通じて気づかされていく学びとなるなあ。

しかし、そこに「正しさ」を求めたら、少し事情は変わってこよう。

それが競技でないのならば、おそらく、剣に、武に「正しさ」などない。

人の生き方がそうであるように。

我々は、本来は自分自身で歩き、発見していくものを、

答えなき世界で安心したいがために、

いかに「正しさ」や「偉い先生」に縛られ、頼りすぎることで逆に苦しみ、豊かなものが見えなくなっているのか。

たとえば、自由な地稽古といえども、組織的にあらかじめ定められた「正しさ」というイメージに適合するように行われるのならば、

それは制限があるという意味において、もしも外の現実に対したときには、形骸化し手順を守るだけに陥った形稽古と同様の不足を抱えることになるのではないか。