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古剣稽古日誌

古剣稽古日誌

青森ワラッセでの武術とネブタのイベントが無事、終了した。

新しい試みで準備時間も足りず、リハーサルもやっておらず、一時はどうしようかと思ったが、

企画の中心となった無刀氏、K氏、外崎源人氏らの活躍によって、大変意義深い講座となり、予想を超えた面白い化学反応が発生し、観覧者の方々から好評をいただいた。

深く感謝申し上げます。

その会に向かう直前、いろいろ持ち物を準備しながら、居間で少し稽古していたら、新しい気づきがあった。

家伝剣術の中段、上段からの素振りである。なんどやっても満足したことがない。

最初に構えた刀と上半身の調和をなるべく変えずに、いかに振りかぶって体幹ごと斬りこむのか。

17世紀の先祖は、當田流も学んでいた。だからその身体には家伝剣術だけではなく、當田流のものもインストールされていたのではないかと思うことがある。

その剣術絵伝書のなかに、半裸の男が、両手で持った剣を、上段から斬りこむ瞬間を、写実的に描いた場面がいくつもある。

二十歳の頃、近現代剣道とは異なるその姿勢が気になり、いろいろマネしたが、どうしてそうなるのか、はたしてどのような理合があるのか、理解できなかった。

だが、いま偶然にも、いろいろ探究しているうちに、それと一致するような所作が出現してきた。これは面白い。検証を深めていこう。

よく「己の身体に聴いて稽古せよ」と言うが、私の場合、まだまだ聞いておらず、「こうなるはずだ」という己の思考へ適合させようと、身体に命令している。

そのような依怙地さでは、新しい未知へ展開できる可能性を自ら摘んでいるも同じである。展開がなければやがて心身も飽いて閉塞し、稽古への意欲は減退するだろう。

または「オレは今日、何回頑張ったか」という自己満足へ逃げるしかなくなる。すると肉体は金属疲労を重ねていくだけとなろう。

最初は少しイメージしてもいいから、身体に提案してみる。そこから返された反応、応答のなかで、なるべきようになっていくのにゆだねてみる、開いていくことが、新しい気づきを呼ぶようだ。

たぶん日常のいろんなこともそうなのかもしれない。己の怠惰や臆病さがそれをさせない。

少しずつでいいから日々、我慢の連続ではなく、新しい発見への期待と喜びを感じられるだけで、人は長く歩いていけるし、本当にそのなかで更新していくものだと思う。

それは稽古だけではない。学問もそうだろうし、日々を暮らしていくこともそうだろう。まあ、このような独立独歩する人間の骨を強くしていくような学び方は、組織や制度にはなじまないかもしれないが。

もちろん、道具に習熟することは必要不可欠だ。

だから上達し、武具が自らの手足の延長となるほど同化するためには、他人からの借り物では見込めない。愛用のものを揃え、常に接することが当たり前だ。

そしてなによりも、土台となっている己の身体の在り様を整えていくこと。

かつ、そのように養成した身体が、技が、独りよがりではいけない。使うべき瞬間に発現できるかどうかが、武の最重要事項だ。

そのような攻防の駆け引きは、稽古や試合でこそ磨かれるのは確かだ。巧者になると素人は手も足も出ずに翻弄される。

だが、気をつけなくてはならないのが、ややもするとその駆け引きの自在さ巧みさは、あらかじめ「稽古だ」「試合だ」という土俵が設定されていて「始め!」の号令があるからこそ発揮できる競技的な心身である場合がある。

現実世界はさらに複雑であり、いつ土俵が形成されるのか、いや、形成されてしまっていたのか、スタートラインはどこだったのか、ハッキリと明示されないのが当たり前だ。よって自ら場の変化を感知し、洞察できる能力が要求される。

これは誰しも、危険を感じたときに思い知らされることだ。少年時代の喧嘩でもいい。部活で強いものが「強い」とは限らなかったことはないだろうか。

では、そのような場の変化、状況を洞察し、対応していくセンスを養成するためには、どうすればいいのか。

特別な稽古法はなく、むしろ、日常の暮らしのなかでの、万物、人との応対そのものが、武の変化、即戦力を学ぶ優れた稽古なのかもしれない。

いや、それがうまかろうと下手だろうと、我々は全員、否応なしにそのような環境に投げ込まれて、毎日やっている。

武は、日々を生きることとつながっているのだ。

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