いつまでも歴史にとらわれることには善し悪しがあると感じた。

そして、己が生きていることの不可思議さと危うさについて、深く考えざるをえないことがあった。

その前には、すべてがかりそめのようなものだ。

家伝剣術はそのことに向き合ってきたはずなのに、

愚鈍な私は全く受け継いでいないではないか。

いくらうまく刀槍を操れたとしても、そのことをよくよく考えずに、与えられている毎日を「当たり前」だと、あぐらをかいているならば、それは遊戯にすぎないだろう。

誰もが必ず向き合わなくてはならない巨大な虚無を前にして、己の愚かさ、あまりの無力さに絶句している。

それでも、いまも生きているから、やらなくてはならないことが次々と襲ってくる。

心身に生気がみなぎらず焦っている。

何を希望にしたらいいのだろうか。

やはり家伝剣術稽古中で体感する現象か。

生々剣をやっているとき、わたしは全く計らいを捨てて、無我夢中で生きている。

過去へのとらわれも、未来への計略も、

そのことで、攻防をすり抜けていく現象が発生する。

そうやって日々を生きていくのかな。自分の体験に、己が救われるということは奇妙であるが、借り物の言葉より何より身に染みて納得できる。

先々週、鹿嶋神宮演武大会の前夜も、そう気付かされた。

前後に迷って居着き、生かされていることを止めるな。

いまここから創めること。その連続から、自ずと八面玲瓏のチカラが生まれていくのではないか。

流れるように刃がついている剣独特の構造。

だから我々もそのような心身の技法でなければ、剣の特性を引き出すことはできないから、稽古で耳を澄ますほど、そのように導かれていくことになろう。

現代において、剣はすでに実用武器としての歴史的役割を終えている。

だから、試合や昇段という特定世界の技法を磨くだけでは、外の世界で非力ではないか。

そうではなく、刀に学ぶべきことは、刀がなくとも、刀とは全く無縁の世界であろうとも、この毎日の現実を、居着かずに八面玲瓏、生きていく心身こそではないか。

ならば刀の導きは、現代においても未来においても、人間が存在する限り、万人につながって生き続けるものとなるだろう。