古剣稽古日誌

古剣稽古日誌

ここ数日、膝が規矩になるということを感じて、工夫している。

座った林崎新夢想流居合では右膝が、立った家伝剣術では両膝が、それぞれ稽古のなかで所作のメルクマールとして指摘されることが多い。

伝書でも、亡き祖父との稽古でも、いまの父での稽古でも、出てくる口伝だ。

あまりに素朴な言葉なので、その奥深さがわからなかった。

いまは少しだけ気づけた。その簡単な表現によって、身体各部が自ずと連動してくるよう仕組まれていることを知り、古人の智慧に驚いている。一方で、懸命に言葉をつないでも少しも説明できていない私が愚かに思えてくる。

とくに私は、スポーツや竹刀剣道のクセで、過剰に足に力を入れすぎてきた反省があり、その反動で、なるべく脚部の力みを抜いて、腕や上半身で動くことで現状打開を工夫してきた。

だが、そればかりでも不足がある。

立っても座っても、全身の立体的構造を整え、推進力を生み、攻防における剣の堅牢さを生み、左右への変化、家伝「カラス足」等、さまざまなことを発生させるうえで、

膝は上下の「浮沈」だけではなく、左右への要素も必要なのではないか。

ことに左右への変化については、現在の武道、武術の演武では意味不明の技法となっている。

いろんな演武では、まっすぐ斬ってこられ、突いてこられるのを左右にさばく所作を見る。

だがしかし。少しでも稽古したことがあれば、実際には実現不可能なフィクションに近いことを痛感する。

私も10代、20代の頃は「絶対無理だ」と感じた。だから悩むことなく、人前で平気で演武している人が不思議でならなかった。

家伝剣術にもそのような所作は多く、フットワークをつけるべく、ランニングやロープワーク、筋トレに励んでも全くダメで、いったいどうすれば実現できるのか悩んだ。

しかし幸運にも、そのなかの小太刀の稽古で、全く発想が逆方向である理合に気づき、ある程度は左右へさばくことができるようになったから幸甚だ。

形稽古のなかだけではあるが、何度かいろんな剣道六・七・八段の方に袋竹刀で思い切り真っ向を斬りおろしてもらうのを、受け止めたり接触することなく、全身でさばいてかわす実験を繰り返してきた。

ときには高段者の方から「消えた感じがするね」とお褒めいただいたこともある。

10代、20代の頃には「絶対無理だ」とあきらめていた技法だったから、人生とはどう展開するのかわからない楽しいものだなあ。

しかしまだまだ不足を感じていた。

なんだか博打を打っているような不確かさと、そのときの状態が死に体であること、自由乱打ではときおりしかできなかったからだ。

いまもまだまだ精度が悪い。それでも直線方向だけで、日々の世界をとらえて生活している現代人の感覚からすると、いきなり左右へ我が身体がチェンジできた瞬間は、単純に風景が変わってみえるだけではなく、全世界の質が転換したかのような爽快な驚きがある。

そのような身体の経験は、精神やものごとの見方にも影響するようだ。

と思ったら、これは幼い頃から現代剣道の面打ちで父から指導されたこと、20代のころアイスホッケー試合で気付いたことがベースとなっているようで、やはりそれほど進展していない己自身に苦笑した。

まだまだ何かあるはずだ。

いくら高度な技であろうとも、差し面による合い面などの相討ちや、小手が先か面が先かと接触の速さを競えるのは、それがいくら打たれても生死にかかわらない安全が保証されているからだ。

よって左右への変化は、おとぎ話ではなく、刀の真っ向同士の衝突による凄惨な相討ち乗り越えるために、前近代の各諸流で当たり前の技法だったはずであり、

単なる左右へのさばきだけではなく、足を払ってくる下段への対応、槍や薙刀などの長柄への対応などにもつながる気がしている。

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