何年ぶりにランニングシューズを買ってしまった。でもいいのかな。

己の稽古内容が拙くなってくると、ついつい体力稽古をやりたくなる。

地稽古や乱取り、素振り、筋トレ…。毎夜、弘前公園の闇を走る。

20代、30代の頃ならばそれでよかった。確かに得るものは多い。

しかし生涯それでは歩んでいけない。

やがて金属疲労による負のスパイラルに悩まされる。先輩達が背中で教えてくれたことだ。

前近代、この地でかつて行われていた稽古法を取り戻そうと思った。

それでもときに私は、質的な向上そのものの核心へ迫っていく稽古に煮詰まり

「なんでもいいから取りあえず大汗をかいて「やったのだ」と安心、満足したい」という焦りから、やみくもな体力まかせの稽古をやっていた。

例えていえば、先生に言われて、漢字書き取り練習をやる児童の宿題と、

己自身が漢字の成立や歴史に疑問を感じ、未知へ向かって調べていく学問研究の違いか。

それぞれ年代によって必要な学びであるが、前者には定められたワク内での100点がある一方で、後者には終わりがなく、どこまでも新世界へと展開していく深い喜びがある。

もしも武術・武道が、青春時代だけの思い出ではなく、生涯をかけて稽古していくならば、

与えられた宿題をこなすのではなく、学問研究のように、喜びながら自ら歩んでいくこと、日々の暮らしの事象とつながることが必要だ。

その自由は大組織よりも、我が家のような「草の根」剣術にこそ許されている幸せに感謝しなくてはならない。

我が未熟さは稽古上だけではなく、日々のことからも痛感されることが多い。

自分の中心が疎かになっている。

これはメンタル面の話ではなく、具体的な体感としてだ。

家伝剣術だけでなく諸流でも、体幹中心部は、身体構造上の重要部であり、それらは拳、背中、首、歩法などから成立する構え、全身のありようにつながっていく。

全身のありようは、武の勝敗に大きく関わるだろう。

林崎新夢想流居合での抜刀でも、最初の段階では、身体各部の連動をあれこれ調整することから始まる。

ある程度カタチがなってくると、末端よりも身体中央に意識を置いた方が、抜けるような気がしている。

伝書のトンボ絵では、おしなべたように、人物の胸中央に黒い点を描いている。

これは単なる絵の様式だけだろうか。

我々もそうだが、絵を描けば、その人の世界観がどこか自ずと表れてくるものだ。

すなわち、人物画を描いた人々が、己の身体のどの部分を強く意識していたのか、内的イメージがどうだったのか、という資料になるのではないだろうか。

身体の物理的な現象は、やはり精神にもリンクしているような気がする。

我が中心をどれだけ深く濃密にしていくか、ということは、武技だけではなく、日々を生きていくうえで重要なことではないのか。

特に、日々、驚・懼・疑・惑の間を泡沫のようにさ迷っている愚かな私にとっては。

まあ、それにしても林崎新夢想流居合の3尺3寸刀は長く、まだまだ身体と一致できていない。立って抜き、振ると、その不足さがいやになる。

刀と身体が、ひとつの構造物になって展開していくにはどうしたらいいのか。

いまの感覚では、おそらく胸を張って直立する近現代剣道や居合道の姿勢では、この長い刀はなかなか我が身と同化してくれない。

「では腕力を」と、筋トレで腱鞘炎になるのではなく、この長さと重さに身をゆだねる。

四足で地面を駆ける野生動物に戻るのがいいのではないかな。

前足の機能を、刀と一体になった構えそのものが、空中で代行する。

そのため、刀が我が推進力や舵にもなり、刀に我が体重が載っていくことになる。

同流極意「卍抜」とは、一体どのような状態なのか、低レベルの私にはわからないが、

そのような刀の動きによって、術者の360度全球面が包まれ、八面玲瓏の身となり、全く手がつけられない、恐ろしい化け物のようになった状態をさしたのではあるまいか。